2015年11月11日

『昆虫記』で好きな“黒ばい”の話


 本稿は、2007年3月にブログにアップしたものの再録である。
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 ファーブル『昆虫記』のなかでは、“黒ばい”の話が好きである。黒ばいとは黒蝿のことで、最近は見かけなくなったが、汚いといって人間に嫌われるうるさい虫である。 
 『昆虫記』は、高校・大学時代に岩波文庫の山田吉彦(きだみのる)・林達彦訳で読んだ。なかで一番印象に残っているのが黒ばいの話であった。黒ばいの話は、岩波文庫では最終巻(20分冊)に収録されていて、ファーブル最晩年の作品にあたる。

 汚いハエの話が好きだなんて、お前はアホかと言われそうだが、なぜこの話が気に入ったかといえば、汚いと嫌われもののハエにすらファーブルが温かい眼差しをそそいでいるからで、それもハエの親がどんなに子どもの蛆(ウジ)に愛情をかけて産卵するかを記述していることにあった。子どものころからハエは汚いもの、迷惑なものとしか思っていなかった私の認識を変えさせられた。

 それだけではない。ハエがどれほど人間にとっても大切な虫かを、ファーブルは説いている。それを教えられたことで、この“黒ばい”の話が気に印象に残ったのだ。

 ファーブル昆虫記といえば、誰でもフンコロガシの話は知っているだろう。道や野原にころがっているウシやウマの糞をじょうずに丸めて産卵する虫のことで、『昆虫記』のなかでは最も有名な話かと思う。“黒ばい”もまあフンコロガシと同じような話ではあるが、私にとっては見たことのない虫なので、現実感がなかったし、幼児のころに聞いた話だからその意義がわからなかった。

 ハエとなると、昔は冬場以外は年中、どこにでもいて食物はもちろん、いたるところに張り付いているか飛びまわっていた、身近な存在なのである。害虫の代表だった。だから、その天敵ハエの生活がファーブルによって、愛情(?)をこめて描写されていたことに驚いたものであった。

 ハエの成虫のメスは、産卵する際に、いかに子どものウジがちゃんと自力で食べていけるかを見極めるのである。例えば鳥の死骸に卵を産みつける際には、目のまわりとか、傷口とか、口の周囲などに産卵する。どこでもいいというわけにはいかないことを、ファーブルはさまざまに実験して確かめていくのであるが、その過程も面白くワクワクさせられた。むろんハエが汚い虫であることは承知しているが、なにか愛らしい虫のように見えてくるからファーブルはたいした人だった。

 「母虫の先見の明ということにかけては、くろばいは選ばれた場所、赤ん坊の吐き出す反応剤に侵食されて柔らかくなり、溶ける場所を不思議なほどよく知っている。子虫の化学は自分の食事の時にはもう使われていないけれども、彼女にはわかっているのだ。本能の高い啓示者である母性愛がそれを教えているのだ。」


 ウジは、食物である動物の肉を噛み切って食べるのではない。溶かして食べるのである。彼らウジは、口からペプシンを分泌し、それで死肉のタンパク質を溶かし、スープ状にしてからいわば飲むのである。これをファーブルは「赤ん坊の吐き出す反応剤に侵食されて柔らかくなる」と書いているのだ。だからハエの母親は、死骸といえども、皮膚表面には産卵しない。動物の皮膚はそれなりに固く、ウジの口では噛みついて中の肉に到達できない。

 死体や腐ったものにたかるハエでさえ、母親はこんなに細やかな子どもへの配慮を示すという、なかなか感動的な話である。
 さらに言うと、ファーブルは“黒ばい”の話の冒頭にこう説く。
 「大地のけがれから祓い浄め、死んだ動物の残骸を生の宝庫に還元するためには、無数の残飯屋がいるものだ。我々の地方のくろばいとにくばいもその仲間だ。」

 大地にころがった死骸を、掃除してくれる昆虫の一つがハエだと言っている。
 われわれはとかく頭が形而上学的になっていて、ハエは汚いもの、ばい菌をうつすものと決めこんでいる。だからそれこそ蛇蝎のごとく嫌われ、とことん排除されてきて、都会では本当に見かけなくなった。だが、実は役にたつ部分もあるのであって、その人間にとって嫌な部分とありがたい部分の両方を、対立物の統一として捉えることが弁証法的な捉え方になる。ハエにもプラス面とマイナス面がある。

 ハエがいなければ、大地の死骸や汚物は掃除されない。実際には他の昆虫や微生物などによって分解されるであろうから、ハエがいなくても人間にとっては困ることは少ないかもしれないが、これは生態系という論理の話である。ハエは生態系にとって、重要な昆虫である。
 たいていの人は、この話は感情的にはハエは嫌いでも、理解はしてくれると思う。たかがハエだからであろうか…。

 ところがお産の話になると、この弁証法的な捉え方にいっせいに非難が集まる。医者を自称する人たちの、その形而上学的頭脳(考え方)にはほとほと呆れた。帝王切開や陣痛促進剤の使用を批判したら、いまだに攻撃してくる。何度も言ったから詳しくは書かないが、私はものごとにはプラスとマイナスの面があるんだと言っているのであって、当然、自宅出産だってマイナスはある。自宅出産は全然問題がなくて、病院出産はいっさい止めろなどと言っているのではないのだ。

 自宅出産にも条件はある、帝王切開にも条件はある。条件次第である。ただ私は、病院側がそうした条件を無視するかのように、カネ儲け主義でなんでもすぐ陣痛促進剤を使用したり、帝王切開をしたりしている傾向を批判した。

 ところが、本ブログにコメントして罵倒してくる人たちは、出産はこんなに危険であるとか、ほらこんなに出産で死ぬ妊婦や子どもが減ったという事実を持ち出してくる。これは要するに、ハエは汚いんだとだけ言いはっているのと同じ論理である。私は、ハエは汚いし、昔は赤痢などの病原菌を運んだだろうけれど、良い面もある、人間にとっても有用な面もあるんですよ、と言っているのだ。

 しかし、そういっても、ファーブルの時代はハエの駆除が徹底しておらず、だから感染症が蔓延したではないか、ハエを徹底的に退治したおかげで、ほらこんなに感染症が減ったんだ、お前はハエがうようよいる方が良いと言うのか! と文句が来そうだ。

 くどく言うけれど、これは論理の話なのである。事実でいえば、ハエが不潔であることは明らかである。駆除も必要である。…が、いくら言っても、頭が形而上学的になっている受験秀才だった人には理解できないのだろう。
 
 それからコメントをいただいたなかに、「弁証法がなんだか知らないが…と言ってきた人」の反論があった。この方は弁証法は科学ではないとお思いのようである。三浦つとむさんに『弁証法はどういう科学か』という弁証法の教科書としては優れた著作があって、いまだに(昭和30年に初版が発行されてから)ずっと超ロングセラーを誇っていることも知らないようだ。弁証法は科学なんですよ。

 だから「科学を理解しあえる人と(だけ)話をしよう」と、おっしゃるけれど、この方は科学は何かデータをとることだと勘違いしているのではないか?  空手家にもいたようだが、突きをスピードは時速何キロかなんてことを測って、科学だと思う人がいた。科学とは、対象とする事物事象を構成する、あるいは貫く論理を導きだして本質にまで高めることによって体系化された認識である。ということはすでに何年も前に措定されている。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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