2015年11月13日

スジを通した音楽批評とは(1/2)


《1》
 私の知り合い男性が、音楽ブログを書いている。
 そのブログをたまたま見たら、シベリウスの交響曲第7番を聴いた論評が掲載してあった。

 このブログはたまに覗くのだが、たいていはむずかしい表題の本が羅列してあるだけのときが多いが、稀に論評が書かれる。文章はとても固い感じで興味がないと読みにくいが、紹介してみる。

     *    *    *

(1)
 5番、6番、7番は1914年頃から平行するように着想を得ていた。7番のアイデア自体は早くにあったようだが、本格的に取り掛かるまでには10年近くの時間が必要だった。7番に関する文献には、この作品の創作が困難な道のりだったことが記されており、作品は様々な曲折を経て、最終的には単一楽章の形に収まったとされている。

 松原千振の「ジャン・シベリウス 交響曲でたどる生涯」等、シベリウスに関する書物にはこの作品の名称がなかなか定まらなかったことが書かれている。7番の創作過程、更には名称の決定の際の迷いなどは後の8番の運命を示唆するものがある。

 繊細なシベリウスにとって人生を生きること自体が大きなストレスだった。日々の生活はシベリウスを追い詰め、この頃には心身にダメージがあった。シベリウスはアルコールに依存するという悪循環に陥り、以後の創作活動に支障を来たした。

(2)
 西洋音楽はメロディーによって構成されているものと、主題と変奏によって構成されているものに分けることができる。メロディーで構成されるものの代表が組曲などであり、変奏によって構成されるものの代表がソナタや交響曲である。シベリウスは3番までは伝統的な様式に則り創作していたが、5番以降、抽象的かつ断片的なモチーフを和声的に精緻につなげ、主題の展開を制限した手法を深化させた。
 (中略)
 この作品は茫漠としたフォルムに伝統的な交響曲の様式が溶け込んでいるところに魅力がある。こういう作品は書こうとして書けるものではなく、様々な偶然が重なった結果、誕生した類まれな作品と言える。7番という密度の高い作品の存在が、この後シベリウスの創作にとって呪縛となったという面もあるのではないか。

 オーマンディは7番を60年と75年の2回残している。60年盤はオーマンディの持つモダンで意欲的な一面がよく出ている。深い譜読みによるスケールの大きな演奏で、名盤と呼ぶにふさわしい。

     *    *    *

 本文では分けられていないが、私が前半と後半で(1)(2)に分けた。以下、大変厳しい批評になるがご容赦を願いたい。
 この(1)と(2)はスジがつながらない。つながっているのは、シベリウスのことを書いているんだな、というだけだ。

 このブログ筆者は、実に音楽についての知識が豊富である。冒頭に述べたが、音楽に関するもの、文化人類学的なものなどの読書量はたいしたものである。
 しかし、知識が多い人にありがちなのは、勝手に事実をつなげてわかったつもりになることである。
 このブログはその典型だと思った。

 たまには中学生にわかる文章、音楽に興味がない女性なんかにわかる文章で書くのも良いはずだ。中学生やそういう女性はスジが通らないとわかってくれないからだ。

 まず(1)の部分であるが、「この作品は茫漠としたフォルムに伝統的な交響曲の様式が溶け込んでいるところに魅力がある」と述べているが、なぜ筆者が魅力と言えるのか、どういう魅力があるのかは何も語られていない。
 いつも言うが、これは媚中・副島隆彦式で「そう言える根拠」を何も示さないで決めつけるスタイルである。副島は例えば「温家宝首相は善人だ、立派な人だ」と褒めちぎっていたが、なぜそう言えるかを書かない。だからスジが通らない。

 さすが媚中副島だけあって、本家の中共が、南沙諸島領有の根拠を示せと国際社会に言われても、「何抜かす、俺たちが支那の島だと言えばそれで領土になる」とほざくのと一緒。同類である。

 媚中・副島がこういうテイタラクになるのは、弁証法がないこともさることながら、認識論が創れなかったことによる。
 認識は頭脳における像であるが、そこにも二重構造があって、ひとつは「反映した像」であり、もう一つは「反映した像を個人が熟成した像」である。

 反映とは、この二重構造で脳細胞に誕生する。
 副島はその仕掛けがわかっていないから、「自分の反映した像を熟成した像」を検証することなく、例えば温家宝は立派な人だと言える。
 ブログ筆者は、シベリウスの音楽に魅力を感じたとするなら、その「魅力」を二重構造で説かねばならないのである。

 「茫漠としたフォルムに伝統的な交響曲の様式」と言われてわかる人はほとんどいない。音楽を文章で解説する困難さはあるが、これはそのシベリウスの交響曲第7番の一つの要素でしかない。
 こういう評し方は、「個別性の構造」で解こうとしていて、逆の「構造の個別性」は考えられていない。

 これは大変むずかしい概念だ。
 一般論の中に「@個別性の構造」と「A構造の個別性」がある。これで対象に分け入っていくのだが、個別性の構造の場合は具体的には現象あるいは事実の収集(牧野植物図鑑のような例)になる。牧野の植物収集が典型であるが、あれは学問とはほど遠いのだからは上(一般論)へ登れない。植物であれば、地球になぜ生命体が誕生したか、なぜ維持されて着ているか〈生命の歴史〉から説くことが「構造の個別性」と解くことだ。

 @は例えば金魚の体の構造を解くことで、ヒレの構造に入っていくありかただ。Aは生命体にとって骨とは何かを知るために金魚に分け入っていく。「構造の個別性」がむずかしく、たいていの人は思ってもみない。構造がわからなければ個別性はわからないのに、別言すれば全体がわからなければ部分もわからないけれど、たいていの(なんであれ)研究者は、部分からしか対象に分け入らない。

 ざっと言って、たいていのむずかしい書籍は知識ばかりで、せいぜい「個別性の構造」を説こうとする程度である。学校教育でも「個別性の構造」だけが勉強、ないし学問だと教わる。だから「構造の個別性」から対象に分け入ることは想定外になっている。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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