2015年11月23日

元禄、好色ばなし


 本稿は、旧心に青雲(2007年)の再録。

 たまには色香の話をしてみたい。
 諸外国の事情はともかく、わが国においては、女性は性的なことがらに関しては、慎み深いことをもって良しとされてきた。近年は欧米の影響や、マスコミの愚民雑誌やTV番組などのせいで、女性は“解放”されてきて、肌の露出も際立ってきている。

私は(古い人間なのでしょうか)シンクロ水泳、フィギュアスケート、女子レスリング、体操競技などで、若い女性が半裸で大股を広げる傾向を決して好ましいとは思っていないのだけれど、むしろ女性のほうが肌解放というか性解放に積極的で、驚かされる。

 女より男が好色だと言われてきたが、実際はウソで、むしろ女性のほうが一般的には色事は好きだと思われるが、これまでは規範に縛られ、自重してきただけであろうと思う。

 瀬戸内寂聴が、仏門に入ってその説法がえらく人気が出ているそうだが、彼女の担当をしていた編集者の言うところでは、若いころは性の欲求が強すぎて、それこそ煩悩に狂わんばかりになってしまうため、もうこれは自分を殺すために仏門に入って男断ちをするしかない、と思い詰めての行動だったはず、と聞いたことがある。

 昨今流行の「できちゃった結婚」も、要するに女性も前後の見境なく快楽を受け入れてしまうからだろう。本来女性は色事を避けるものではないのだから、タガが外れればこうなる。
 和服は、見たところ、胸の膨らみを隠すように、締め付けて着る。女性の性的魅力である胸の膨らみをキツく締め付けて隠すという服はやや異様である。イスラム女性も隠すには隠すが、ゆったりした衣服である。なぜ隠す?

 あれがファッションとなったのは、江戸時代も元禄、徳川綱吉の時代であった。綱吉の側用人(のち大老格)・柳沢吉保が武家の妻や娘に通達した結果である。柳沢吉保は五代将軍・徳川綱吉が館林藩主だった時代から小姓として仕え、将軍になったあとの一身に寵愛を受けた。綱吉と吉保は濃厚な男色で、それが二人だけの趣味趣向なら構わなかったが、のちの日本史を左右するほどに重大な影響を与えた。

 綱吉は自身の愛妾・染子を柳沢吉保にくれてやった。吉保は拝領された染子を側室としたが、その後も染子は綱吉の寝所に呼ばれたという。柳沢の長男・吉里は実は綱吉と染子の子とされる。柳沢吉保は綱吉から現在の六義園を拝領したが、この庭園に吉野から運ばせた桜を、側室の名前にちなんで「染井吉野」と名づけたという説もある。染井村の園芸屋が品種改良したなんてウソだろう。

 柳沢はこの染子が綱吉の寝所に呼ばれるのを利用して、染子に寝物語で甲府に百万石の領地を下賜してくれるよう願いでた。この件は綱吉が快諾したものの綱吉の死去により実現しなかった。この事態を重くみた幕閣は、以後、将軍が大奥で寝る際は、同衾する女とは別に2名の女に寝ずの番をさせ、すべてを事後報告させることになった。色仕掛けでとんでもないことが決められたら事だからで、これは徳川幕府終焉まで続けられた。二人の女に側で見つめられながらなさる将軍にはチト同情するが。
 
 柳沢吉保の長男ら5人の息子が、それぞれなんらかの形で藩主となり、多くは幕末まで存続した。柳沢は館林の一介の藩士の末子だったのだから、大変な栄達である。その秘密が綱吉とのホモ関係にあった。息子がみんな藩主になれたのも、将軍の後ろ盾があったればこそなのだが、柳沢自身が大変なゴマスリで、簡単に言えば、地位と領地が欲しがる野望家だった。

 そこで。
 大名は、世継ぎがいないと家督相続ができず、取り潰しになる。取り潰しになれば、その領地は幕府が取り上げ、天領にするか、別の人間を藩主に据える。だから、大名に世継ぎさえ生まれなければ、徳川家の天領が増えるし、自分にもその領地が下賜され、頂けるチャンスが来ると睨んだ。

 もともと柳沢はホモでもあったから、躊躇なく諸大名にできるだけ世継ぎを作らないよう働きかけた。その一つが儒学者・貝原益軒の『養生訓』の利用であった。

 貝原益軒は冴えない福岡藩士だったが、将軍綱吉がホモで、幕臣が寝所におなごを送りこんでも、ちょろっと女体に挨拶するだけで、とどめは側に尻を出させておいた童子のほうへする性癖があると聞き及んで、「女体は前戯だけがよろしい」などと、綱吉へのおべんちゃら本を書いた。それが何の科学的根拠もない『養生訓』であった。これを藩主・黒田綱政が綱吉に献上した。『養生訓』のなかで、長生きしたければ男子たるもの「接して漏らさず」がいいのだとあるのに感心した綱吉は、自分への御機嫌取りとも知らず、これを「将軍推薦本」にした。

 ちなみに八切止夫『大江戸意外史』にはこうある。
 「綱吉は“2万8千人”の千代田城大奥ハーレムの中の、唯一人の男性として『博愛を衆に及ばせねばならぬ。まあ出さずでよいのだから、口明けだけはしてやるが、仏教でいう衆生斉度であろう』と、烈しい時には、ずらり十余人も一列横隊に並べて寝かせておき(中略)一突きずつしたともいわれる。だから64歳まで千人斬りどころか万人突きをしてのけたが、肝心の生命の水は注入していなかったゆえ、世継ぎにさせる子には恵まれていない」

 そ、そんなことが可能なのか? しかし、その気にさせただけで、撤収されてしまう女のほうも、やりきれまいに…。
 さて、柳沢吉保も綱吉の意向に加担して、殿様の種まきを自重するよう、また、しきりに男色を奨励した。よって諸大名のほうも、長生きできるなら…と「女体は前戯用」にし、稚児趣味を貫く。

 実際、綱吉時代に、世継ぎ不在にためにお家断絶になった大名は多く、10以上になったという。大名の正室はというと、気の毒なことに夫である殿様とは同衾することはあっても、なかなか産ませてはもらえない。なぜかというと、例えば将軍家と縁のある娘だとか、由緒ある家柄の娘だと、これを妊娠させるような行為をし、いざ出産のときに産褥熱などで死なせてしまったら一大事なのである。だから万一正妻が妊娠したら、構わずせっせと中絶していた。だから心おきなくチャレンジするには(万一死んでもいい?)側室を使った。

 その側室にさえ、柳沢吉保は接しても漏らすなと言ったのである。さらに、『ねやにて慎みのこと』として、柳沢は「一ツ、よがり声をあげてはならぬ。二ツ、もう少しなどと延引は不可。三ツ、恥じらいを旨として受け身のこと。四ツ、感ずるのは、はしたなき業(さが)なり」と“通達”を出したと『大江戸意外史』にある。こんなことにまで介入するとは余計なお世話だと思うけれど、それは一つには彼がホモだからであり、もう一つは政略だったのだ。女性に、あのことは恥ずかしいことだという観念は、こうやって植え付けられた。

 この施政方針の一環として、冒頭に述べたように、乳房が盛り上がって見えることにないよう和服はきっちり胸をしめつけて、男の欲情を刺激しないようにせよ、となったのである。またこのころに、柳沢が貝原益軒のほかにも、荻生徂徠のような儒学者を使い、「女は三界に家なし」(三界とは、欲界、色界、無色界のこと)と言わせ、「女大学」というパンフレットで封建的な女子教育を徹底させた。

(「女大学」の全文が下記で読める。http://www.tanken.com/onnadaigaku.html
 現在も、女性の和服は柳沢の通達にしたがって、胸を小さく見せる仕様となっている。が、しかし、そのおかげで日本女性の色気が磨かれたのではないか。例えば和服の女の襟あし、裾、手首からチラッと見える白い肌や、ちょっとした仕草がかえって色気を醸しだすことになったのであって、西洋人やアジア人にはない独自の色香文化を育んだ。
 




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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