2015年12月18日

人を虫けらのように扱う人間(1/2)


《1》
 かねて人間のなかに、どうして人を人と思わぬような言動をするのか、どうして人(後進の者)を虫ケラのように扱うのかと不審であった。
 そういう人は、いつもなんだか不機嫌なのである。ささいなことで後輩や部下を怒鳴ることも多い。どうみてもイジメでしかないのだ。側にいると、片時も心休まるときがない。

 人に冷たいというのか、厳しすぎるというのか…の態度をとる人はどうも頭は良くて、そこそこ一流の大学を出ているが、かといって東大法学部や医学部のような「超」がつくほどの出身ではないのではないか、そこに何か共通項があるのではないかとおぼろげに思いつつ、何人もの人たちを見てきた。

 例えば昔あった国立大学二期校の出身の人とか、東大を受験したけれど残念ながら早稲田大学の政経学部に入らざるを得なかった人とか、東大には入ったが法学部・医学部には行けずに文2か文3になっちゃった人とか。
 世間的には一流大学じゃないですかと人から羨まれる学歴なのに、本人は屈折した思いを抱えている。

 こういう人は偏差値ではほとんど変わらないのに、頂点の東大文1や理3にわずかな差や入試問題の不運なんかで入れなかったために、心底コンプレックスを抱くか、こんなはずではなかったとの思いを抱き続けているのではないだろうか。学歴は終生消せないから、いつまでも不機嫌を引きずるのだと思う。

 大学としては一流の中には入れてもらえないところを出た人のほうが、むしろあきらめがついているのか、もともとのんびり屋で競争に強くなかったせいか、対人関係でギスギスした感じにはならなかった。
 なにも学校の成績だけが人生じゃないと悟っているせいか、それとも学歴を価値基準にしたら単にやりきれないのか…、人を虫ケラのように怒鳴りまくることはない。

 これに関しては明日のブログで掘り下げてみたいが…。
 さて、そんななか、河本敏浩著『誰がバカをつくるのか? 〜学力低下の真相を探る』(ブックマン社)を読んで、そうした長年の疑問、不審が解けたような気がした。

 本書は、60年代末の学園紛争あたりから始まって、その後の子どもたちの荒廃(教育現場の荒廃)、すなわち暴走族も、校内暴力も、学級崩壊も、援助交際も、モンスター・ペアレントの登場も、すべては大学入試制度が悪い、大学教官がバカだからだと論証したものである。
 こうした深刻な教育の問題がなぜ登場したかを一つの線でつなぎ、関連づけ、“追いつめられた子供”の心理に迫る教育書になっている。

     *    *    *

 ものの考えのまっとうさを試す問題は皆無に近く、重箱の隅をつつくようなヒネた問題ばかり。 東大の国語、英語の問題…
 こういう問題しか考えつかない大学のエリート教員のいかに頭が悪いかなのだ。彼らは大学入試の問題をつくるにあたって、予備校のプロでさえ正解が出せない超ひねくれた問題を作る能力だけがある。

 1964年の東大入試問題はこんなに簡単だった!’51年、’64年、’68年、’70年、’77年、’90年、’01年の東京大学入試問題を解くことで、戦後における学力低下の原因が見えてきた!  という面白い発想で書かれた、ユニークな本。
 本書では、試験を検定型にして、小学校から大学までをひとつにつないでしまえ!という解決法が提示。

     *    *    *

 『誰がバカをつくるのか?』は、日本の最高学府のあり方が日本の教育ならびに国民の学力を規定するという仮説である。
 これは仮説といっても自明の理ともいえるものだろう。
 戦後ずっと、教育改革はこの最高学府の入試制度を触らずに、小中学校の教育課程を変更することで学力向上を図ろうとしたがこれでは目的を達成できるはずがないというのが著者の主張である。

 高校の世界史履修漏れや分数が出来ない大学生を批判するのなら
大学入試に世界史や分数を導入すればいとも簡単にこの問題は解決する。
 戦後教育のもろもろの問題状況に対する処方箋が著者のから提供される。

 現在の荒れた教育現場については、現在の荒れている子どもの親世代がかつて学校から排除された世代であり、親に「学校は大切なところ」「先生の言うことをききなさい」という感覚が形成されていないという現実を指摘していると、著者は指摘する。

 その通りだろう。ほんの一握りの受験成功者以外は、99%が落ちこぼれである。
 つまりは、人生で必要なのは自分で考えることができ、豊かな感情があり、そして個人が自立してなおかつ社会的認識が見事に備わっていくよう、教育することなのに、現今教育制度はまったくそうなっていなくて、テストで模範解答を選ばせる教育になっている。そこで模範解答にあわせて自分を決めていく受験勉強に、ほんの一部だけが成功して、あとは落ちこぼれた2流以下にされる。

 恨みはみんな抱いて卒業する。そして我が子の番になって今度こそ1%の成功者に入れてやりたいとリベンジを狙う親もいる一方で、不信感を抱きつづける親もいるのだ。

 そんな親が子どもに対し家庭で学校の権威を説くはずもなく、いくら学校現場で教師が奮闘したところで学校の権威の回復は望むべくもないと著者は説く。

 日本の支配層は、一部のエリートと大量の善良なるバカを養成しようと企んでいる。何度か書いたが、霞ヶ関官僚は、テメエの子供に官僚を世襲させるために、裏で東大試験問題や国家公務員試験の出題と答えを教えていると評論家・広瀬隆氏が述べていた。国家公務員に世襲が多い現状からすれば、あり得る話だ。

 しかし現実は、一部超秀才を創ったつもりでもバカだけを量産している。落ちこぼれはいわずもがな。
 本当に子どもたちの学力を向上させようとするならば大学改革に着手しなければならない。
 70年前後の全共闘運動は、そうした目覚めへの提言を含んではいたが、左翼セクトに政治運動に持って行かれ、また学生ら自身に実力がないためにポシャってしまった。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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