2016年01月05日

居島一平の優れた歴史観


 居島一平(おりしまいっぺい)の名は、「虎ノ門ニュース8時入り」をYouTubeの動画で見て知った。
 「虎8」はご存知の方も多かろうが、青山繁晴、武田邦彦、有本香などのコメンテーターを曜日ごとに呼んで、ニュースを解説する番組で、司会を居島一平がやっている。

 居島一平のことは知らなかったが、どうも司会業にしては垢抜けないが、彼のプロフィールが出ると「米粒写経」所属となっている。なんだこれは? と調べたら、漫才コンビだという。もう一人「サンキュータツオ」と組んでいるが、居島単独では「大本営八俵」を名乗って浴衣姿に陸軍軍帽を被って漫談をやっている。

 それでYouTubeで彼のライブなどを正月に見るうちに、ファンになった。インテリ漫才とか称して、ただのアホとはかなり違う趣で、半端ではない歴史や映画などの蘊蓄を駆使してしゃべりまくる。教養のレベルが高くないとついていけない漫才だから、これは地上波テレビのようにB層しか相手にしていない白痴バラエティでは受けまい。
 
 実力から言って、とうに大ブレイクしていいはずが、まだ知る人ぞ知るに留まっているのは、日本人の娯楽レベルが落ちたからである。白痴テレビでは彼の漫才はむずかしすぎるのが不幸である。

 それに居島一平は「右」投げ、左「撃ち」と自称して、漫才の中身が過激にサヨクを相当おちょくるものなので、サヨクメディアには無視されるのである。「虎8」は、はじめは香山リカのようなサヨクおばかさんを起用していたが、今や左撃ちのコメンテーターばかりになり、だから居島一平が合うとして起用されたのであろう。

 しかし、「虎8」では、居島一平の面白さが生かされていない。クソ真面目で、当たり障りのない反応しかできていない。ディレクターが悪いのだろう。彼の芸と過激かつ無尽の教養を生かしてやれば良いのにと思う。昨今の芸人ではめずらしく、「芸」がある。漫才で言うと、「中川家」の弟・礼二とか「タカ&トシ」のタカにも芸がある。こういう芸人は飽きられない。

 米粒写経のライブで「陰謀で読み解く八甲田山」は秀逸だった。
https://www.youtube.com/watch?v=nv9G-kCSRcU
 映画評論家の春日太一が登場して、米粒写経と掛け合いしながら、八甲田山雪中行軍遭難事件は、決して事故ではなく意図的にしかけられた殺戮であったとする見解を述べて行く。
 
 映画「八甲田山」(高倉健、北小路欣也ら)の原作となった新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』では、新田が登山好きで気象研究者であることもあって、気象の解説や組織論をテーマにしていたけれど、新田は遭難ではなく陰謀の臭いがする事実はみんな隠してしまったというのである。

 八甲田の事件は日露戦争の2年前である。酷寒のシベリアでの軍の装備の確認や、ロシア海軍が津軽海峡から艦砲射撃してきて青森市内が破壊されたら、太平洋側と日本海側が分断される。そのときの連絡として冬のルートを切り開いておくためにといって、青森と弘前の連隊に八甲田山塊の雪中行軍を命じられるのだが、考えてみれば変な話なのである。やらなくてもいい演習だった。

 春日太一によれば、日露戦争直前の陸軍のトップは長州閥の山縣有朋だったが、これを失脚させるために薩摩が諮ってこの八甲田山事件を起こした。山縣は明治天皇にも叱責され、面目を失って退任に追い込まれる。そして実際に日露戦争を指揮するのは薩摩の大山巌になった。

 八甲田山で亡くなった将兵は薩長の覇権争いの犠牲者だった。当時、東北の人間は薩長にとっては戊辰戦争で「朝敵」で、新政府に刃向かったのだから、虫けらのごとくに扱い、殺しても構わないのだった。
 やはり明治維新は、薩長のテロリストが実行したクーデターだったことが、こうした事実にも露呈する。

 雪中行軍に生き残った弘前連隊の将兵も、日露戦争で奉天会戦で激戦地に放り込まれて全員が、(おそらく口封じのために)戦死している。
 非常に面白い展開なので、興味ある方はお勧めだ。

 居島一平がフリーアナウンサー高島淳とかけあう「今夜も築地テラスで」(2013年1月22日)も面白かった。
https://www.youtube.com/watch?v=paQoYUfOZi8
 ラップで徳川家の15代将軍を並べる芸も面白い。歴史オタクの面目躍如である。

 この対談のなかで、居島は高島に「司馬遼太郎は好きですか?」と聞かれて言下に「嫌です!」と答える場面がある。
 その答えがすばらしい。とてもお笑い芸人とは思えない。
 ざっと以下にまとめてみた。

     *    *    *

 昔は夢中になって読んだのですが、途中からあの評論家口調というか…、司馬史観は歴史を俯瞰で上から見ると言われるが、上から見るのが今はやりの言葉で言うと、「上から目線」になっちゃってはお仕舞いだと思う。全体を見ていたはずがどうも自分の位置が上がってしまっていると感じる。僕はやっぱり歴史上の人物には寄り添うべきだと思う。例えば明智光秀が本能寺へ行くと決断するまで、辛かっただろうね、「時は今 天がしたたる五月かな」と詠むまでにずいぶん身を揉んだろうねえ、(明智に)「ちょっと一杯いこうか?」と言いたくなるような寄り添い方。

 司馬さんで典型的なのが、西郷隆盛の生涯を小説にした『翔ぶが如く』なんかも、司馬さんの悪い癖が出ている。語尾に「〜と言っていい」がすごく出てくる。「このときの西郷は〜だったと言っていい」というのがね。何それ。気持ち悪い。なんでもっと寄り添わないの? 寄り添おうよ。

 大東亜戦争についても、司馬さんはあんな無謀な戦争とか、バカな戦争をやってとか言う。全部あとから…。我々は今の段階ではいくらでも(批判を)言えますよ。でも、そのとき、その場、その環境にいたとき、これだけの選択肢しかなくて決断した。じゃああなたならもっと最適な選択ができたのですか? 私はあの当時生きていた人を全部弁護しようというのではなくて、どうしようもない人もいたでしょうし、やむを得ない場合もあったでしょうけれど、教科書で知った程度のことを上から神の目線で裁断なんかできていいんですか。

 山本周五郎や海音寺潮五郎はそういう目線では見ませんよ。結果論で書いちゃいけない。

 (中略)
 靖国神社についても、首相は参拝すべきだと思うけれど、あれは明治維新のときの戊辰戦争における官軍側の戦死者を祀った招魂社が始まりだった。朝廷側しか祀っていない。じゃあ旧幕府側や、新撰組や彰義隊の魂はどうなるの。そこがひっかかる。そこを国家としても、完全に死者の名誉を回復がされるような、同胞同士、刃を交わす事態になったけれども、今百年の時を閲してみたら、みんな国のために誠の心で向かい合ったのでしょう。行き違いはあったけれど、根は一緒だよね、という名誉回復がされているならいいがそうはなっていない。

 国連(UN)は結局、常任安全保障理事会は戦勝国じゃないですか。日本とドイツが旧敵国条項でいまだに差別されている。それと同じことを日本国内でやっている。靖国神社の中で。
 幕末の京都でも、志士にしても新撰組にしても、ただのテロリストのわけがないですよ。なかには赤き誠の心で戦っていた人間だっていっぱいいたわけじゃないですか。

 時流のなかで仕方なく敵味方に分かれて戦うしかなかっただけではないのか。
 靖国神社も勝った方だけ祀るのではおかしいし、また靖国というと大東亜戦争のことばっかり言われるのもどうかと。
 もっと根本に遡って考えたら、広い話をしたら、右とか左とかつまらない弁別を超えたところで、新たな地平が開けるはずだと思う。前に進む話はそういうことでしか開いてこないと思う。

     *    *    *

 すばらしい切り口である。司馬遼太郎への批判もその通りだ。私もずいぶん読んだけれど、サヨクだからということもあるし、説教臭さや、上から目線が嫌になって、本は全部棄てた。
 居島一平が言うように、歴史を後世の者が裁断するのは傲慢である。

 日本が本当は、靖国についても戊辰戦争に遡って、会津藩や西郷隆盛などの戦死者を、広い心で和解し、主張を超えてその誠の心を大事にする事をやれば、特亜どもの妨害を根本から排除することにもつながるだろうに。

 年末に日韓で「慰安婦問題」で合意に達したようだが、日本はたしかに政治的には成功したかもしれないが、安倍総理はまだ言葉が足りない。世界中が納得する、感動する言葉を本当は日本が発してくれるのを待っているのに、彼は揚げ足をとられるのを怖れて何も言わないのはいけない。

 居島一平が説くのは理想でしかないというかもしれないが、世界中のいがみ合いを解消するための道は、日本しかつけられないはずである。
 慰安婦問題で言うなら、日本だけに謝罪しろというのではなく、韓国軍がヴェトナム女性を強姦して生んだ「ライダイハン」にしても、米軍の慰安婦にしても、同じように苦しんだ人に謝罪するのでなくては、「あらたな地平」が開けるわけはない。
 
 それに、「今夜も築地テラスで」のなかで、居島一平がなんと森銑三氏の『西鶴一家言』を絶賛していたのにも驚いた。すばらしい眼力と言うべきである。
 私も一度ブログで詳しく取り上げようと思いつつ、先延ばしにしているが、森銑三は、井原西鶴の浮き世草紙本は、「一代男」のみであって、他の西鶴作品は全部偽作だと解いている。

 日本の国文学界は、徒弟制度のせいもあり、商売上の利権もあって、森氏を村八分にし、めったやたらに西鶴の作品にしてしまっているが、恥ずべきことなのである。「一代男」以外を西鶴の作品とする研究者は信用しないほうがいい。ドナルド・キーンもアホである。文学がわかっていないのだ。
 居島は、森銑三を異様なまでの分析力と説得力、と述べているけれど、本物を見抜く力を持った人間だと思う。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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