2016年01月12日

独立不覊の意味


 私ごときが人生論などとはおこがましいが、昨日に引き続いて思うところを記してみたい。

 たまたまYouTube動画で青山繁晴氏(独立総合研究所社長)の「答えて、答えて、答える!」
https://www.youtube.com/watch?v=K3QYlDebNVM
を見ていたら、氏にメールが毎日山のように来るらしいが、そのなかで青山氏に「ああせい、こうせい」と指示してくるメールが「多過ぎる」ほどに寄せられるそうだ。

 青山繁晴氏が、安倍総理や首相官邸に個人的に電話できる立場におられるから、ぜひ首相にこれを伝えてくれという話を持って行くのだろう。
 それに対して、青山氏はどうするかというと、「ボクに指示したら逆効果です。絶対に受け入れません。だから独立総合研究所なんです」と。
 短い説明だったが、そのとおり!と膝を叩いた。

 今は迷惑メールはシャッタウトすることにしているが、以前はよくイチャモンが寄せられたし、友人が親切に「ブログでそんなことはやめなよ」と言ってくることがあった。
 「空手をやるって? バカな。三島由紀夫みたいな肉体至上主義になっちゃうぞ」とか。

 私にそういう指図めいたことを言ってくれば逆効果である。
 ひところ、これも親切で、なのは承知しているが、天寿堂の稲村さんも「お前の間違いを正してやる。こう考えるのが正しい」と、教えを垂れるというか、上から目線で「ああせい、こうせい」と指示してくるコメントがあって、失礼かとは思ったが、きつくお断りを入れた。

 昨日のブログで書いたように、私はこれ!と決めた師しか仰がない。頑固一徹だ。いくら身近でも結果を出してもいない人間の助言なんか受け入れていいことは何もない。譬え間違いがあろうとも、師と決めた人のことを信じ切って、身を委ねるのが私の信念である。宗教みたいだと揶揄する人は多かったが、絶対に揺るがなかった。

 年末から正月にかけて、その天寿堂の稲村さんが一冊の本になるほどの論文を書いたので、出版界の事情に通じているあなたの意見を聞かせてくれと言われた。光栄なので受けることにした。その論文を書くように奨めたのは私だったから責任もあった。

 だが、ささやかな感想や明らかな誤字、説明不足と思われることを指摘するのにも、大変気を遣った。私からの「指示」にならぬように、上から目線にならぬように、常にお伺いを立てるというか、配慮に配慮を重ねて返信した。

 「僭越ながら…」とか「無視していただいて結構ですが…」とか「一つの案でしかありませんが…」とか「素人の意見ですみませんが」とか、くどいほどに断って意見を述べた。
 やりすぎると、嫌味になりかねないから、これも気を遣う。

 しかし日本語には、「老婆心ながら」「口はばったい言い方ですが」「僭越ですが」「お節介なのは承知してますが」「一応念のために」「恐縮です」「手前味噌で…」などの謙譲語が多い。これは日本人の特長かと思う。きっと支那語や韓国語にはないのでは?
 これは、以前にも拙ブログで説いたが、むずかしく言うなら対象の構造に分け入るに際しては、反対側の自己の認識の構造への分け入るとの統一でなければならないという弁証法的捉え方があるからだろう。

 自分がされて嫌なことを人様に強いてはいけない。それでもなお、受け取った稲村氏は不快になられたやに想像するが、器の大きな方で、嫌な顔をせずに受け止めてくださったことに感謝している。
 私のほうも、人に意見をいうときにどれほど観念的に二重化してものを言わねばならないかの勉強になったし、何と言っても稲村氏の“世紀の発見”を世に広めたいとの思いが強かった。

 ところが。
 稲村さんに対しても、「ああせい、こうせい」としゃしゃり出てくる無礼者がいるようだ。半端な東洋医学の知識を持つばかりに、俺が正しい、お前はまちがっていると、頼みもしないのに言い募る。指図する。人様のHPのやり取りであるし、読むと気分が悪くなるから読まないが、一行だけのチラ見で十分その浅さがわかってしまう。

 しかし、いけないのは稲村さんがそれに真面目に対応していることである。器が大きいことはいいことだが、それが災いしている。
 私に言わせていただければ、青山繁晴氏の言うような「独立不覊」の意味が十分わかっておられないのかとも思う。

 南ク継正先生が、「月刊空手道」誌に『武道講義』を連載され、終わってすぐに、どこかの大学教授だったかが同じ「月刊空手道」誌に、イチャモンを載せたことがあった。
 幼稚園児が大人に「ダメだよ、それは」と言っているようなものだった。掲載した月刊空手道の編集者がアホすぎた。

 そんな低レベルの反論にもなっていない「ご意見」は南ク継正先生は相手にされなかった、という事実を稲村氏も知っているだろうに…。低レベルの人間を相手にすれば、世間からも、斯界の中でもバカにされるのだとわかっていなければいけない。

 まじめな質問なら、ある程度、(私もそうだけれど)答えてよいが、南ク先生の著書さえまじめに読まないくせに、勝手な推測でイチャモンをつけてきたりするのはあまりに愚かすぎて、低過ぎて、呆れてものも言えない。
 よしんば、なかには謹聴に値する意見も含まれていたとしても、相手にすると相互浸透するのが、弁証法の「法則」なのである。

 人様の意見で勉強になることはある、参考にすればいい、他人の見解を知れば天狗にならずにすむ、自分さえしっかりしていれば悪しき相互浸透は起きないなどの言い分はあるだろう。だからそれが落とし穴なのである。どう落とし穴なのかは、昨日からのブログでわかっていただけるだろう。
 得るものと引き換えに失うものがあるのだ。

 私に対しても、「あなたが陥っている南ク学派の呪縛を解いてあげたい」などと、余計なお世話を言ってくる人までいた。謙譲のココロもない。ご当人はゲスな新興宗教に入れ揚げているくせに、何が呪縛だ? 「あなたが南ク学派の呪縛から解き放たれるよう、神様にお願いしてます」とまで言われて、私が爆笑した事は言うまでもない。

 私も青山氏と同じく、「ボクに指示したら逆効果です。絶対に受け入れません」と言うしかない。私にとって青山氏などは師と仰ぐ対象ではないが、その心意気や良し、ではないか。だから彼は首相サイドからも信頼されている。右顧左眄、あっちにもいい顔、こっちにもいい顔、たくみな世渡り…そんな人間が「信頼」の2文字を得ることなどあり得ようか?

 不覊独立たる人間は、孤立は怖れまい。人からの評価で一喜一憂しない。しかしきちんと自分の主体性は確立され、意見は持っている。だからこそ人様の見解はそれなりに批判はしても尊重し、上から目線で「ああせい、こうせい」と指図したりしないのである。
 人にああせい、こうせいと指示して喜んでいる人間は、独立不覊の何たるかを知らないのだ。

 「不覊」の羈(き)は、馬のたづなのことで、それが「不(ない)」とは、束縛から自由だとか、才知が人並みはずれているという意味になる。
 自分が自由で不覊であることは、他人に押し付けがましく指図したり、したり顔で見下したりもしない人間でいることである。

 さて、話は違うが…。
 今回の北鮮のいかさま核実験で、日本でも国会で非難決議をしたそうだが、みっともない話である。国会で決議して何か効果がちょっとでもあるの? 対抗して「核を開発するぞ」とか「在日朝鮮人を全員強制送還するぞ」と決議するなら意味はあるが、蛙のつらに小便ほどの利き目も北鮮にはない。
 
 そんななか、あの無礼極み、売れない俳優の山本太郎参院議員が、なんと決議の採決に棄権して、ブログでこう言い放ったそうだ。
 「決議文は、わが国独自の制裁を強める姿勢が読み取れる」としたうえで、「わが国独自の『追加的制裁』は危険だ」「相手側の挑発に対して、より独自の強硬姿勢を示す事は、挑発に乗った形になる。わが国との緊張状態は、より強まる。それは、相手側の思惑にハマった事に等しい」などと持論を展開した。

 わけのわからない「持論」であるが、要するに、相手を刺激しさえしなければ、平和なんだと、昔から共産国の手先だった社会党や共産党と変わらぬ主張。北鮮が何をやっても文句は言うな、だけ。
 じゃあ、太郎よ、どうやって理不尽にも拉致された日本人同胞を取り返すか、いい案を出してみろ。

 あるいは「非難決議」やるなら「パチンコ全面禁止にするぞ」という内容がなければ意味がないじゃないかと提案するなら良かったが。

 これがまさに「独立不覊」とは何かを知らない馬鹿者の言である。
 独立不覊は、ある意味恐い、勇気がいる、誰かからぶちのめされる恐れだってある。主体性をなくして、誰かに助言してもらっていれば楽なのかもしれない。
 しかし、そんな生きざまは、奴隷の屈従でしかない。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
すいません。失礼は承知ですが、わかりません。

「私はこれ!と決めた師しか仰がない。頑固一徹だ。いくら身近でも結果を出してもいない人間の助言なんか受け入れていいことは何もない。譬え間違いがあろうとも、師と決めた人のことを信じ切って、身を委ねるのが私の信念である。宗教みたいだと揶揄する人は多かったが、絶対に揺るがなかった。」

と書かれていますが、独立不覊とは矛盾しませんか?
また結果とはどういうものかも教えてくだされ。
Posted by さんた at 2016年01月12日 16:48
さんたさん

よく読んでください、としか言い様がない。
「結果」とはどういうものかが分からない? ご冗談でしょう。そういうのを揚げ足取りというのです。
例えば、世に偉人と呼べる人がいるでしょう。それを結果をだした人というのです。分野はさまざだから、具体的に挙げずに一般的に「結果」と書いているのです。
それでわからないのではどうしようもないですね。

独立不覊と矛盾? 信念をもつことが独立不覊のひとつの大事な要素です。
Posted by さんたさんへ(ブログ筆者です) at 2016年01月12日 18:40
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