2016年01月16日

文体の格調


 1月12日付の本ブログ「独立不覊の意味」のなかで、天寿堂整復院の稲村氏が論文を書き下ろしておられることを書いた。編集経験のある私に感想をと言ってこられたので僭越ながら、変換ミスなどを校正してお戻しした。
 そのなかで些細なことなのだが、稲村氏がうっかり書いた箇所について、「相棒」の杉下右京のせりふじゃないが「細かいことが気になる、ぼくの悪い癖」が出て、次の指摘をした。

 それは、論文自体は本になるほどの大部なので、レジュメ、すなわち「概説」を付けてはいかがかと提案申しあげたことである。
 稲村氏からいただいたそのレジュメには「概略」となっていたので、それより「概説」でしょうと返信した。

 概略と概説は全然違う。概略というと、なんだ略しているのか、となる。概説ならば略しているのではなく、要点を端的にまとまたもの、という意味である。英語で言うと、コンサイスではなくサマリーと言うべきか。
 これは志の違いである。

 会社での書類なら「概略」で構うまいが、学術論文は格調高くを目指さなければならない。
 たとえ略であったとしても、格好よい言葉を選ばないと。
 実際、南郷学派の学究の方々が著した最新の本では『医学教育概論』となっているくらいだ。概説より学問的レベルで言えば、概論になるのだ。

 またこういう指摘もした。
 論文のなかである地名が書いてあった。
 たとえば、「鯖江で〜した」という文章であれば、ここは「福井県鯖江市で〜した」と書かなければいけない。
 県名と「市」を入れると、格調が出て来る。福井県のだぞ、しかも市のだぞ、といった志を示すほうがいいと。「鯖江」でわかるじゃないか、どうってことないと思う人が多かろうが、「福井県」と入れれば、その土地の歴史、文化を含んだ言葉となるからだ。
 日常会話でなら、鯖江で十分通じても、論文となればきちんとフルネームで言うべきだ。

 言葉がいわば普段着ではなく、スーツを着せた感じになるのだ。
 高級レストランでは客にもだらけた服装は許さないではないか。それがルールである。自分の文章は、そういういわば高級レストラン以上の中身と品格があると自負するなら、だらけた文章にはしていられない。

 また、稲村氏が、ご自身の健康腺療法の後継者を育成すべくゼミと講座をなさっているのだが、そこを「主催している」と書いておられたので、ここは「主宰」でしょう? と申しあげた。
 主催ではただの催しである。主宰は辞書的には「一つの目的を持って行動する組織を纏める人物」となっているが、心意気の違いがある。

 まだある。
 「日本弁証法論理学研究会の『生命史観』」…と書かれていたのを、私は「の」でつなげてはまずいのではないかと問うた。間違いではないけれど。
 「生命史観」はいわば略であって、正しくは「生命の歴史」と言うべきである。だから…。
 「日本弁証法論理学研究会が学的措定した『生命の歴史』」…と書くべきである。

 格調が違ってくるでしょう。
 ただ、これは論文であればこそであって、通俗的エッセイとか新聞記事程度の文章ならば、「学的措定」などというむずかしい言葉は遣わないほうがいい。漢字ばかりで読みにくいと苦情を受けかねない。

 私信を取り上げて申し訳ないが、文体の大事さを本ブログでも書いておきたいと思ったのだ。
 こういうことは、われわれの文化にとって大事なことなのに、学校では教えられない。教師が受験にしか目を向けていないからだ。

 もしかして皆さんのなかには、そんな重箱の隅をつつくようなことはどうでもいいじゃないかと思う人がいるかもしれない。文章を書くのはその人らしく、個性を生かして書けばいいじゃないかと反発する…。
 しかしながら、これは出版界では常識、あるいはルールなのである。個人で勝手なブログやツイッターを書くのなら、どうでもよくても、苟も(いやしくも)論文のレベルを目指すとか、文学レベルを志すのなら、斯界の、業界の、ルールは守らなければならない。

 その一端が今回紹介した事項である。
 世の中はルールを守る人間ほど独創的で個性的な人間たりうるのである。
 はじめから個性が大事と言っている人間は、論文も文学作品も世間では相手にされない。独創も発揮できずに終わる。例外はない。

 科学の世界でも、藝術でも、当てずっぽうや思いつきだけでの大発見もできないし、歴史に残る文化遺産になることはなされない。 
 ルール遵守の精神なしには、学問上の発見も藝術上の至高の作品もあり得ない。
 
 美術で言うなら、(すべてを知っているわけではないが)、基本が出来ていて、ルールに従って技を磨いたのは、藤田嗣治ただ一人であった。あとはデッサンすら覚束ない画家ばかりで、妙な個性さえ発揮すれば世の中では売れるかもしれないが、千年の重みに耐えるものにはなり得ない。

 こういうことを学校教育で教えないで、点数さえ取れれば良しとし、後は個性的でいいのよ〜♪と聞かされて育てば、バカになるだけである。
 人生で成功するには、良き師と出逢い、全身全霊で師を信じ切ることだと、したためたが、まさに良き師はそういう意味でルールそのものでもある。ルールの基本の上にだけ成功があるからだ。

 当然に、他人を批判する場合も、罵倒や嫌味、揚げ足取り、イチャモンなどをやるのはルール違反である。嘘をつくのもいけない。
 世の中で成功への道の足を引っ張るのは、その人間の感情である。
 稲村氏は南郷学派で学問の基本を学んでいる。だから軸がぶれない。論述もルールどおりだ。

 しかし、南郷学派の学問を受け入れない人間は、つまらない妬み、ひがみ、意地、思い込みという感情が強烈である。自分が信じてきた学校教育の知識を否定されるのがたまらなく嫌だというだけで、そういう感情に自分を浸してしまう。

 妬み、ひがみ、あるいはそれまでの個性的感情を飲み込んで、あるいは棄てて、目の前に広がる成功をとれるかどうかが勝負の分かれ目である。
 一緒になって、妬みやひがみをぼかしてくれて、南郷学派は間違いさ、と言ってくれる仲間がいると安心してしまう。「とかくメダカは群れたがる」と言うし、「水は低きに流れる」とも言うのである。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
書かれていることはしごくもっともですが、そういう面からVINYLJUNKYをご評価されているのは理解できません。あれは完全な盗作ですよ。筆者さまは対象が誰かによって評価がぶれますな。
Posted by 元演歌歌手 at 2016年01月16日 13:40
元演歌歌手殿

藝術とは、心を持った人を感動させることです。ド素人なんかを感動させているのは、藝術ではありません。

VINYLJUNKYは、あなたにはとうてい分からないでしょうが、心を持った人に語りかけていることを見て取れなければ、イチャモンをつけているだけです。

私がブログで批判した方は、そも、自分がVINYLJUNKY主宰者ほどの人間性の高みにないのに、お前は盗作じゃないかと非難したのです。自分はVINYLJUNKY主宰者と同等だと勘違いしているから、あるいは友人だと思うことを反省しないと、成長しないということです。

VINYLJUNKYさんを師と仰げるかどうかです。
私はある分野で、VINYLJUNKYさんを師と認めています。そのある分野だけが大事なのであって、失礼ながら彼がどんなゲスだとしても、悪者だとしても、どうでもいいことなのです。
あなたにしても、私が批判した方にしても、人から師と尊敬されるものを持っているんですか?

元演歌歌手殿がどういう方かわからないので、これまでとしますが…。
ちなみに、小学校や中学校の教師は、文科省の指導要領とか出版社のつくった「虎の巻」を、“盗作”して生徒に教えてますね。それが罪なんですか? と言ってもわからないでしょうねえ。
Posted by 元演歌歌手殿へ(ブログ筆者です) at 2016年01月16日 19:57
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