2016年01月29日

篠原勝之の小説『骨風』を酷評する


 どこだか忘れたがあるブログで、篠原勝之の小説『骨風』(文藝春秋社)を絶賛していたので、うっかり買って読んでしまった。古書だけど。
 篠原勝之と言われても誰かわからなかったが、しばらくして、自称「ゲージツカ」で、愛称「クマさん」として、よくテレビに出ていたのを思いだした。ハゲ頭で、だらしない格好をしていた。

 そうとわかっていたら買わなかったのに、しくじった。
 8編の短編集で、私小説であった。2作品だけさらっと読んで棄てた。「畢生の連作集」とはよくも言ったもんだ。

 子供の頃にずっと父親に殴られっぱなしで、恐怖にうち震えていたそうだ。母親も全然止めに入ってくれない。ついに17歳で北海道から家出して上京する。
 そしてお定まりの、挫折、家族解散、借金返済の自転車操業。老いてなお身勝手。自分の感情だけでつくる鉄屑を使った「彫刻」。

 アマゾンのブックレビューを覗くと、褒めちぎった言葉が羅列してある。
 「過剰な修飾を削ぎ落した言葉で淡々と刻まれていく。読み終えた時、言葉がずっしりと持ち重りする」
 「眼からそのままこぼれ出したような無垢な言葉は、勢いと、強さと、繊細さをにじませて着地する」
 「ヒトの痛み・哀しみ・無常を見つめる『オレ』の眼差しは、最後の一行まで揺るがない」

 「副題『死んだらみんなおんなじだもの』にあるように、強く家族、死、病、送った者たち、送られた者たちを意識した連作」
 「ストーリーテーラーとして一級であることは何度も書いたが、改めて人の心の機微に入る繊細な洞察には唸ってしまう」
 「作者のクマさんはきっと繊細で優しい方なんだろうと思いました。なかなか厳しい現実を乗り越えてこられた内容なのに押しつけがましくなく、逆に優しさやせつなさがじんわりしみてきました」

 …と、こうなのだ。先にこうした評を読んでおけば、買わずに済んだものをと後悔する。もしかしてこれらは、版元の編集者が読者のふりして書き込んだのか?
 本邦で出版社が公刊している私小説は、おしなべてこんなものである。くだらない生き方をしてきた人間が、手慣れた筆のさばきで、「優しさ」を基軸に、読者の共感を得るべくしたためたものである。

 「それがどうしたんだ?」とおもわず愚痴が出る。
 「死んだらみんなおんなじだもの」が副題だそうだが、その低度のことしか言っていない。なのに褒めちぎる人の気持ちがわからん。
 死んだらみんな同じではない。篠原よ、では尋ねるが、お前の両親と歴史に名を残した偉人と同じか? 同じと思っているから、おぬしも低レベルの人間で終わるのだ。

 篠原の小説は破滅型小説である。
 破滅型とは、伊藤整氏が『近代日本人の発想の諸形式』で分類してみせた作家の傾向の一つで、遅くとも中年までにくたばった自堕落な作家が「破滅型」、老年まで生きた常識的な作家が「調和型」と説いている。

 篠原勝之の場合は、定職にも付かず、結婚生活もデタラメ、自分が苦しんだ父親からの暴力なのに息子にも同じ暴力をふるってしまう、で、勝手にゲージツカと称して自堕落そのものだから破滅型の典型だ。ただ老人になるまで生きた。
 そして白痴テレビ番組には喜んで出た。

 今にいたるも出版界は、こんなどうでもいい破滅型の小説を称揚して本にするのか。進歩がないねえ。だから文学の世界が見捨てられるのに。
 ちなみに「ヒトの痛み・哀しみ・無常を見つめる『オレ』の眼差し」を褒めているご仁がいるけれど、そういう小説は飽きあきした。
 
 ヒトの痛み、哀しみ、無常を「見つめて」…だからなんなんだ?
 それに共感する軟弱な文学青年は多かろうが、これは言うなれば車椅子に乗る怠け者に同情するようなものである。
 事故で両脚を失った人ならともかく、車椅子に乗っているのはたいてい怠け者である。がんばって歩けよ。ヒトが同情するから車椅子から降りないんだろうが。

 ヒトの痛み、哀しみ、無常を「見つめ」るのではなしに、どう克服したか、努力したか、を書くのがまともな人間のありようである。
 例えば映画『奇跡の人』を観なさいよ。三重苦のヘレン・ケラーをサリバン先生がいかに立ち直らせたかが描かれている。壮絶な努力、対象への探求と働きかけ、燃え上がる情熱、鉄の志。みごとではないか。
 篠原の小説にあるような、苦しみに寄り添って「見つめる」なんてことはバカのやることだ。

 幼少期に父親の暴力で苦しみ、大人になってもそのトラウマを引きずるのに、同情して、寄り添って、何になるんだ?
 そんなことを小説に書いて、同情を呼ぶなんて、作者と読者の傷の舐め合いでしかない。
 繊細であるのも、優しいのも結構だが、それだけって何? そんなことを筆の冴えで読ませたって意味はない。

 YouTube動画で見たが、漫才師「米粒写経」の居島一平が、最近の小説はなんでもトラウマがどうしたというありきたりの設定で話をつくったものばかりだと嘆いていた。どうもそうらしい。日本では映画やドラマでは、子供の時のトラウマが原因で、鬱になったの、人を愛せないだの、殺しちゃっただのというストーリが多い気がする。

 実に安直な物語の設定である。篠原の『骨風』もその流れである。親に虐待されたせいで、それがトラウマになって人生がうまく行かない、けれどダメ自分や捨て猫などへの眼差しは優しい、っていうわけだ。
 
 問題や障害は克服するか解決する以外に道はないのに、ダメ自分を認めてくれとする道がわが国には藝術と認められるのは異常である。日本だけではなく世界中にそのみっともない性向がないではないが、それが宗教にすがるありようである。ダメ自分をそれでも誰かに認めてほしいだけ。問題を努力して解決するのではなく、問題から逃げることで解決を図ろうとするするやりかただ。

 日本では宗教ばかりでなく、小説やドラマなどで、ダメ人間礼賛が猖獗をきわめ続けるのは、やはりどこかおかしい。
 自分だけが傷ついているふうな小説やドラマ。テメエのダメ人間ぶりで他人こそが傷ついているなど思いもしない。
 まったくいじましいったらない。

 先日書いたが、事故や事件で非業の死を遂げた人に、ただ「悲しみを共有する」だけで、自分を良い子ぶっていて、原因や対策を科学的に追及することを怠けている輩と同じである。
 こんなどうでもいいトラウマに捕われている自分が哀れで、かわいいとしている人間が、憲法9条は守ろうと抜かす。戦争のトラウマ? 悲しみ? それで傷つきたくないって?

 幼少期のトラウマに苦しめられているのなら、他人に(自分自身にも)ただ寄り添って見つめてもらうのではいけない。トラウマとは何かを認識学に学んで正体をつかめばいい。認識学を学ぼうとしない怠け者のくせに、利いた風なことを言うんじゃない。

 篠原の場合は、幼少期の父親の理不尽な暴力と母親の無能は気の毒ではあったが、それによって、食事がまともにならず、社会的認識も育たず、人への怯えと恐怖ばかりが反映して量質転化し、思春期でいっそう歪み、志も持てぬままに親から逃げ出した。
 逃げたのは正解あったろうが、どうやって立ち直るかがなかった。
 師たる人間に師事することもなく、勝手に生き、レベルの低いダメ友だちとばかり交流した。だから17歳以降は自分の責任である。

 子供の時から大人になっても、ろくな食事をしていないようだ。それによって脳(実体)がいかほどか歪むか、まともな思考ができなくなるかを反省すればいいのに、みずからを「ゲージツカ」とわざわざ蔑称してみせてきた。そうなった経緯の論理的解明を放棄している。

 哀れだねえ。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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