2016年02月09日

白人はなぜラテン語を学習するのか(2/2)


《2》
 本稿は、なぜヨーロッパでは今も熱心にラテン語や古代ギリシャ語を子供に学ばせるのかを考えようとしている。
 今日はヨーロッパのマイナスの面から迫ってみようかと思う。

 ドイツ映画『1945戦場への橋』は、第二次世界大戦最末期の45年春、敗戦目前となったドイツのある村を舞台に、7人の高校生が教室から駆り出されて、訓練もなしに村の橋を防衛するように命じられる話であった。
 もう明日にも米軍がくるという土壇場のときにも、高校でラテン語を勉強しているシーンが出て来る。

 ほんの、二言三言の文法についてのやりとりだが、こんなものを勉強させられる青年が気の毒に思えた。
 厳格を持って鳴らすドイツだからか、このラテン語という廃語になった言語で学習を縛り付けることの効用を狙っているとしか思えない。
 私たちも、中学や高校で英語の文法を学ばされたが、いささかも楽しくなかったであろう。試験があるから無理矢理覚えた、だけである。学習する理由を教師がプライドとともに教えないからいけない。

 英語ならばまだしも、使えるようになれば人生に役立つが、西洋人にとってのラテン語はまず人生で使うことはないだろう。だからほとんど試験のための学習になる。
 これは若者を徹底して野方図にさせない、勉強はそもそも苦痛だ、それを克服しろと言っているのではないか。

 これは西洋の宗教でもいえることかと思う。とりわけカソリックやギリシャ正教は厳格である。信者を教会に始終来させて懺悔、告解をさせる。ここまで個人の生活や考えをギリギリと縛りつけなければ成り立たない社会なのかとも想像される。

 同じくドイツ映画で『白いリボン』という名作があった。第一次世界大戦直前、ドイツの田舎の村が舞台で、不気味な殺人事件が次々に起きる話である。村のボスとして教会の牧師が君臨し、学校を取り仕切って若者を徹底して道徳や規律で縛りつける。この牧師は自分の10人ほどもいる子供に、純真無垢な心が育つようにと腕に常に白いリボンを結びつけさせている。

 腕にリボンを結びつけられた子供は、常に父親が睨んでいるから悪いことはできないかろうという狙いなのだ。
 息苦しいほどのドイツ社会の縛り、掟、統括ゆえに、若者の認識が歪んでくる、それを問うた映画だった。
 『白いリボン』にラテン語も古代ギリシャ語の学習も出てはこないが、当然やっていたはずだ。

 西洋の教育事情は知らないが、日本では何かと利権と結びつく。小学生にも英語をやらせることになったのは、国際化にふさわしく云々とは表向きで、英語教育の利権を拡大したいためである。
 以前本ブログでも取り上げた「習字」なんかも、書道教育界の利権でやっているようなものだ。習字がいらないと言っているのではなく、生徒に黙って筆で字を書かせているだけなら、利権を維持しているだけではないかと問うた。

 だからイギリスやドイツでは、ラテン語教師の利権が確立されていて、代々それで食っている教師がいるのだろうと想察される。だから止められない…。

 それと、話を『白いリボン』に戻すと、白人の性への欲求の強さへの重しがあるのではなかろうか。奴らは性衝動が日本人みたいに淡白ではない。肉食だからそうなる。坊主が菜食するのは、性の欲求を抑えるためだから。
 それを抑えないと大変なのだろう。だからキリスト教で押さえ込み、ラテン語や古代ギリシャ語の学習で縛り付けている面があろうかと思う。

 しかし、抑えつければつけるほど、人は鬱屈するし、欲求不満が爆発する。それが映画『白いリボン』では殺人へとつながっている。
 それに以前にも書いたが、アメリカや欧州の子供、若者、とりわけ軍隊の中では、始終ケンカしている、いじめあっている、バカにし合っている、なんという社会なのだろう。まあ映画で観るかぎりなのだが、現実もそうだから映画でも当たり前のように演出されるのだろう。

 先に取り上げた『1945戦場への橋』では16〜17歳くらいの男の子たちが、やにわに兵士に仕立てられて自分の村の橋を守らされるのだが、お互いに常に罵り合い。すぐ相手をバカにした言い方をするか、気に入らないことを言われて切れる。大声で怒鳴りあう。言い返すときこう言えば相手がカッとなってむかってくる、とわかっていながら、突き飛ばしたり、殴ったり。

 それでも友達が弾に当たって倒れれば懸命に手当をしようとする友情はある。普段はお互い憎みあっているとしか思えないのに、訳がわからない。
 『ハリーポッター』は観たことがないが、予告編だけでも、寄宿舎内でお互いをバカにし合い、ドツキあっている場面があるでしょう。

 自分が相手を言葉でバカにすれば、あるいは食ってかかれば、どうなるかは、日にち毎日繰り返して、わかっているはずなのに、絶え間なくドツキ合っている。
 まるで、鶏小屋に何匹か入れた雄鶏が、いつもつつきあっているみたいだ。

 頭が悪いんじゃないか、と思えてならない。野獣だ。火病は決して韓国人だけではない。
 いったいそうなるのは、キリスト教やむずかしいラテン語なんかで縛りまくっているから、自由を求めての反動なのだろうか。それとも、そうした重しをかけ続けないと、若者はあまりに無軌道になってしまうからなのか。
 
 こんな連中が、アジア、アフリカ、南北アメリカに出向いて、現地の無辜の民を蹂躙しまくったのだから、たまったものではない。
 ヨーロッパもアメリカも、白人は常に戦争ばかりであった。隣りの国と終始揉めている。だから、遠慮していたら、優しくしていたら、略奪され、女は犯され、放火され、奴隷にされる社会であった。そうした乱獲り社会だから子供のうちから「強さ」を誇示しないではいられない。

 要するに、われわれ農耕民族からすると、白人はサイコパスである。人間の異常性が脳細胞の実体化にまで及んでしまったようなもの。そのサイコパス性を閉じ込める装置の一つがキリスト教、もう一つがほとんど意味のないラテン語の文法学習なのではないかと思ったのだが…。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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