2016年03月01日

滅びゆく新聞


 青山繁晴氏が関西テレビの「よーいどん」というバラエティ番組(2月24日)に出て、自身の生い立ちから共同通信社に入って、ペルー事件を契機に退社するまでを語っていた。
 在任中には破天荒な取材もしたが、次々に社会を揺るがすスクープを連発していた花形記者だったようだ。

 その青山氏が共同通信の入社試験の面接で、面接官から君はどんな記事を書きたいのかと質問されたという。それで答えたのは、今日、面接に来るときに駅のホームから人が落ちるのをたまたま目撃した、と。この人がなぜ落ちたのかをしっかり取材して、もしも給料が少なくて困っていたのなら、そういう記事を書きたいと言った。

 すると面接官(編集局長)が、「だから君は記者としてはダメなんだ。君は人を助けたいんだろ、助けたい人は記者には向いてないんだよ。記者は冷徹に突き放して見て記事にしなければならないからだ、君は向いてない」と喜びながら言ったそうだ。

 その場で青山氏は、「だからマスコミはみんなに嫌われるんだ」と言い放ったそうだ。
 よくこんな正論を真っ向、面接のときに言ったものだ。この編集局長は最後まで、あいつだけは入社させるなと主張したそうだが、見るべき人は共同通信社にもいた。青山氏の資質を見抜いたのだろう。

 青山氏のこの姿勢は、常識的には新聞記者らしくない。小説家に向いている。実際、青山氏はこれからは小説を書くことにしていると述べている。
 ところで、最近はよく「虎ノ門ニュース8時入り」を楽しみに見ている。司会進行を居島一平がやり、曜日代わりのコメンテーターに、青山氏のほかに、百田尚樹、有本香、武田邦彦、ケント・ギルバートなどがいるのだが、虎ノ門のサテライトスタジオでの収録中に、黒山の人だかりができるのは青山氏だけである。ほかのニュース解説者のときは一人もギャラリーができない。

 2時間の番組中、ガラス窓の外でじっと立ちっぱなしで見学している。よほどの支持者なのだろう。私は青山氏と意見が違うことはあるけれど、見ていると彼が絶大な人気を博しているのがわかる気はする。
 ただ、青山氏はしょせんは既存マスコミの中で発言し、稼いでいる人だ。以前にも書いたが、彼は9・11のテロをブッシュの自作自演と捉えていないのは、ダメである。また在日関連にも言及せず、共産党が在日朝鮮人に支配されていることも言わない。危ないことは避けている。
 先にホームから転落した人への眼差しで言ったような、普通のジャーナリストと違う志や熱情を感じないわけではない。

 次に。
 『寿屋コピーライター開高健』(坪松博之著 たま出版)があって、小説家・開高健をコピーライターと作家の両面で論じた本である。
 開高健の創作したコピーで、最高傑作と言われるのが、以下のトリスウイスキーの広告(1961年)だった。

 「人間」らしく
 やりたいナ

 トリスを飲んで
 「人間」らしく
 やりたいナ

 「人間」なんだからナ

 当時、これほど人口に膾炙したコピーはなかった。ただの広告が人々の心肝を叩いたのだ。いまだに語り継がれる。
 この代表作をものしたころには開高健は芥川賞作家としてデビューしていた。そのサントリ−の宣伝部でコピーを書いていたころの開高健を筆者の坪松氏が評している。引用させてもらう。

     *    *    *

 開高のアプローチは山崎(引用者注:サントリー宣伝部の開高の上司)とは異なり、コピーに社会性、ニュース性を取り込もうとしたわけではない。むしろ、商品との接点から出発している。
 ウィスキーを欲する人々の心から出発している。そこにはウィスキー飲みの気持ちが表現されている。一行一行進むごとにウィスキーを手にとろうする感情が湧き出てくる。その感情が受け手の共感を生む。受け手の中にあるもやもやとしていた気持ちが、このコピーと接することによって形あるものに変えられてゆくのである。

 そして心の中にトリスウィスキーの強い存在感を刻み込む。そこにリアリティがある。あふれている。それも、山崎が寿屋の広告メッセージに欠かせないと考えていた、ヒューマニズムたっぷりに、である。
 開高のコピーは人間そのものであった。山崎は駆け出しのコピーライターの言葉にリアリティ、ヒューマニズムを認めて、彼の内からあふれ出る言葉を採用したのである。

     *    *    *

 ここに見られるように、開高の場合も、青山繁晴氏も、既存の記者とかコピーライターの概念というか、枠に収まらない人間として、自分の仕事を捉えようとしている。
 坪松氏の言葉を借りれば、「人間そのもの」があふれていることの魅力が開高健にも青山繁晴にもあるのだろう。

 開高健は、東京オリンピック前の1年間ほど、週刊朝日で「ずばり東京」というルポを連載していた。これが週刊朝日の中で出色の読み物となって、大評判になったものだった。つまり、週刊誌のありきたりの記者では書けないことを、東京中をルポしてまさに八面六臂の姿勢で書きまくった。週刊誌の記事を書いていた凡百の記者たちには「人間そのもの」があふれ出る中身がなかったのだと思う。

 開高も、取材対象を「冷徹に突き放した」普通の記事にしないで、そこに人間味あふれるというか、志ある探訪記を書こうとした。読者はそういう文章を歓迎し、支持したのだ。青山繁晴氏の虎ノ門ニュースでの解説を、サテライトスタジオの外で熱心に聴きに集まる人たちと同じことであろう。青山氏は普通のニュース解説ではないのだ。

 ニュースを読みたい、ウィスキーを飲みたい、その人々の認識の深部にある琴線に触れるかどうかが分かれ目なのである。
 ちなみに、開高健のライバルだった大江健三郎には、「人間そのもの」はないし、ウィスキーを欲する人の気持ちがわかる資質はなかった。大江は、東大出の受験秀才のまま作家になり、サラリーマンや商店主などの働く人の気持ちがわからぬまま、作品を書くという大失敗をやった。結果は無惨に「9条」信者に成り果てた。

 さて、おたちあい。
 日下公人氏の出色の新聞記者批判を聴いた。日下公人氏は、昨年ブレイクしたラグビーの五郎丸選手になぜ日本人が熱狂的に好きになったかを説いていた。
 五郎丸がフリーキックをするとき、目標を定めるまでは集中して厳しい表情をしているが、蹴る寸前には「あとはボールに任せた」とでもいうように、穏やかな顔になって、蹴る、と言うのだ。

 日本人はその最後の瞬間の五郎丸の顔が「わかった」のだと。だからみんなが彼を好きになった。日本人らしいいい顔だった。同感だ。あれは支那人や韓国人にはできない表情である。
 しかし新聞記者はそういう肝心なことは書かない。やれ何年ぶりにどうしたとか、五郎丸のフリーキックの成功率はどうだとか、そんなことばかり。記者はデスクから、数字になることだけ書け、と言われているからだと日下氏は言う。

 また、文章は5W1Hで書けと教えられる。そうでないものは通らない。いつもそういう枠に嵌めた記事を書かされている。
 たしかに日下氏が言うとおりだろう。
 だから記事が面白くない。五郎丸の表情なんかについて「いい顔だ」などと書いても、デスクは「なんだこれは」とはねてしまう。
 結局、新聞の文章はバカにされる。
 青山氏が言うとおり「だからマスコミはみんなに嫌われる」になる。

 記事に主観は不要だと言うのだろうけれど、そのくせ、さりげなくサヨクの主張(主観)を文中に潜り込ませるのだけはイッチョマエだ。そういうずるさに、民衆は気づかないとでも思っているのか。
 かかる反省は、いまだに新聞にはない。高学歴、高収入にあぐらをかいているうちに、萎凋は避けられなくなった。

 これは同じように、学校の教師にも言える。ただ数学や物理の教科内容だけ教えている教師は、人気はないし、軽蔑される。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。東大とか出た秀才で、「人間そのもの」を理解している人っていないんですか??
Posted by キティちゃん at 2016年03月03日 21:04
キティちゃん
これは一般論で言っています。東大のなかにも、偶然受験秀才に毒されずに済んだとか、社会人になってから反省して「人間」を取り戻した人はいます。
実、日下公人さんは東大出です。
Posted by キティちゃんへ(ブログ筆者です) at 2016年03月03日 21:09
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