2016年03月12日

童話と空手


 わが空手道場で、「金太郎」「桃太郎」「浦島太郎」の3つの童話をネタにして、われら流派の空手の優位性、稽古の大事性を講義したものを以下にまとめた。

 まず「金太郎」から。
 童謡にあるように、足柄山の山奥で、いつも鉞(まさかり)を手にし、クマにまたがって乗馬の稽古をし、ケダモノ集めて相撲をとる…こういう話である。金太郎はのちに坂田金時という武将になり、源頼光の家来となって、「酒呑童子」を退治した。平安時代の説話。

 金太郎がクマと相撲をとったのは、骨や筋肉を鍛えるとともに、交感神経を鍛えたのである。
 クマはヒトより俊敏で力があって、しかも毛むくじゃらで金太郎の手ではつかみにくい、それを意識を集中して手の神経を働かせて投げたから交感神経が鍛えられた。

 クマにまたがって「お馬の稽古」も、クマの背は手ではもちにくいから、転げおちないようしっかり毛をつかんでいなければならないので、手指の神経が鍛えられた。冬ならなおのこと、手が冷えてかじかむから、懸命に神経を働かせて摑むから、アタマが良くなる(ま、冬はクマのほうは冬眠しているけど)。
 サルが生活しにくい樹上で4つ足を使って動いたから、手足の指が駆使され、脳が発達し、人間へと進化できたのだ。

 金太郎の絵ではいつも裸で腹がけをしている。それによって皮膚が鍛えられた。子供は本来は発熱体とでもいうべく、体温が高く、動き回っているから「冷え」とは無縁のはずなのだが、最近の子は寒がりで厚着をしている。われわれの子供時代は、冬でも半ズボンが当たり前だったが、今はコートを着て通学している子を見かけて驚く。
 これは食事が悪いのと運動不足と、薄着で鍛えないからだ。

 ゆえにインフルエンザが流行し、花粉症になっていく。
 金太郎のように年中裸でいれば、交感神経が鍛えられて、風邪もひかなくなる。

 「けだもの集めて相撲の稽古」とは、自然の地面の上での相撲だから、足の神経がつねに地面のイレギュラーに対応して神経が働かされ、手と足の両方の交感神経が鍛えられる。
 現在の大相撲は勝負の前にきれいに箒で平らにならしているけれど、あれでは力士を甘やかしている。モンゴルでは、凸凹の野っぱらで相撲をとっている。だからモンゴル力士は強くなる。

 日本人力士も、相撲部屋だけでなく、野原や海岸の砂浜で稽古すればもっとましになるのに…。
 また、当然裸足で相撲をとり、普段も裸足で歩きまわっているから、足裏の感覚が磨ぎすまされ、内臓の状態も良くなる。大地という磁性体と直接触れて、自分自身が活性化した磁性体になる。

 マサカリについては、肩に担いだのでは鍛錬にならないが、いつも手にして、薪や物造りのために木の枝を払ったりしていれば、これはそうとうの足腰と手指の鍛錬になる。マサカリは非常に重いから、足腰でしっかり踏ん張らねばならぬし、手で握るのも大変である。
 宮本武蔵が強くなれたのは、百姓仕事をして鍬を振るったからであったが、金太郎はさらに重く扱いにくいマサカリだったから、後に剣や槍を扱うようになったときの基礎体力がついたのだ。

 マサカリをふるって太い樹木に打ち付ければ、手だけでなく全身に衝撃が来る、その衝撃で骨が丈夫になる。
 こうして金太郎は強い武将になった。
 次に桃太郎。

 桃太郎が鬼征伐に成功したのは、キビ団子という精製してない雑穀を食べて栄養をつけたことがまず挙げられる。食事が良ければ交感神経も活性化するし。
 そして肝心なことは、猿、犬、雉を供にしただけではなく、動物と歩いたり走ったりしたことである。

 サルもイヌもキジも、少年桃太郎よりは運動性に優れる。走れば速い、跳べば高い、木登りは上手、とこうなっている。
 人間より優れた動きをする動物に合わせて歩いて相互浸透して、筋力も骨も交感神経も鍛えられたのである。人間の動きの限界を動物に動きを合わせることで乗り越えることができた、ということだ。

 ある人が五十肩になって、ちょっと動くと激痛が走るようになったときに、自分の身体を怠けさせないように、犬を飼って一緒に走って引っ張らせたそうだ。イヌに引っ張られれば激痛だったというが、おかげですぐに治った。
 
 「金太郎」と「桃太郎」の童話の重要な論理は、この人間の動きの限界を自然や動物に動きを合わせることで乗り越えたところにある。私たちは便利な文明生活に慣らされ、身体も神経もだらけている。早い話が、自分で畑を耕して野菜を作らなくても、八百屋に行けば楽に野菜を買ってきて食べられる。

 クルマの運転でも、神経を使えばアタマはよくなるが、自動運転のクルマにしたら、バカになるばかりだ。
 だからいよいよ足腰は弱まり、交感神経は鈍くさせられる。

 交感神経が鈍くなるから、風邪を引きやすいし、花粉症になるし、不妊症にもなるし、頭も悪くなる。憲法9条を書いておけば戦争にならないなんて思っているおバカは交感神経が腐っているのだろう。外界をまっとうに反映できる実力が交感神経を鈍らせることで失っている。

 しかも、金太郎も桃太郎も、武人であり、武道家になった。ずばり戦争をする人間である。鍛錬を「戦う魂」の養成として行なった。国を護る、鬼から社会を護る、その志があってればこそ、困難な修行に耐えたし、それによって認識も磨かれたわけである。
 金太郎も桃太郎も、敵たる鬼を殲滅した。それが戦前のまっとうな童話であったから、少年たちの儀表(ぎひょう)足り得たのだ。

 戦前の日本にとっての鬼は西洋列強だった。日本の子供たちはこうした童話で育てられたから、やがて軍人となって、東亜の植民地で苦しむ人たちを解放すべく、戦いに赴いたのである。まさに「鬼退治」であった。
 戦後の一部の童話のように、最後は鬼とも和解しました、では闘魂が鍛えられずダメである。

 交感神経を鍛え直すには、として、金太郎や桃太郎の実例を挙げた。
 むろんそれはおとぎ話であるから、現実にはどうしたらいいか。
 それがわが流派の空手である。
 空手はうるさいほどに形を指導される。

 流派によっては、いい加減な形でも腕力で突ければいいと教えるやに聞くが、われわれは違う。
 拳の握り方や、突く位置、どうやって拳をひねるか、脇に引いたときの位置、形などが、それこそミリ単位でチェックされるものである。

 それは突きだけでなく、蹴りも受けも、足の運びも、着眼も、なにもかも身体の動き、構えに至るまで指導される。日常生活ではあり得ない動きの連続だ。バレエや日舞もそういう指導ではないかと思うが…。
 しかも空手はそれが踊りではないのだから、相手からの攻撃に合わせて動かなければ、自分が殺されるというシビアな状況の中で、技化させなければいけない。認識もフルに駆使させられる。
 こうして「金太郎」や「桃太郎」が実践した、「人間の動きの限界を自然や動物に動きを合わせることで乗り越える」を、実現できるのである。

 これがわが流派の空手の優位性でもある。「金太郎」と「桃太郎」が、強くて頭のよい武人になれたわけ、その論理性が、空手の稽古のすべてに渡って貫かれていると言ってもよい。
 自分一人のがんばりだけでは上達に限界があるが、それを乗り越えるために、「自分個人のあり方をいったん否定して」(第一の否定)、自然や動物の実力にあわせ、あるいは日常の運動をはるかに上を行く修行をして(第二の否定)、達人になれるのである。

 これが学校教育の必然性でもある。自分1人で数の計算や言葉の学習をするのでは個性的になってしまうし、限界があるが、画一的に決められたカリキュラムを強制されるからこそ、「否定の否定」で頭が良くなる。
 また金太郎は足柄山の動物と、桃太郎は猿、犬、キジと、集団力を使って個人では成し遂げられない成果を挙げることができたのだ。

 これこそ私が現代こそ徴兵制を復活させて、若いうちに集団生活を強制して、自分個人では超えられない限界を撃ち破る経験をさせるべきだと説く所以である。厳しい規律、集団活動、が、まともに考える実力をつけるし、病気にならない基礎体力をつける。

 ザイニチに主導された敵性日教組は、例えば中学生向けに、服装は自分で決めよう(制服反対)、飲酒喫煙しても処罰されない、学校行かない権利、自由な恋愛を楽しみセックスも自分で決めよう、ありのままの自分でいようなどと、ひたすらわがまま勝手な人間を創ろうとしている。

 そうして高校生・大学生になったおバカが、「安保法制反対」「戦争反対」と烏合の衆となってわめくようになる。彼らには「金太郎」や「桃太郎」の話の神髄すら理解できまい。

 最後に、3つめの「浦島太郎」の童話が残してあったが、もう言うまでもあるまい。
 浦島太郎が竜宮城から返って来て、一気に老けたのは、竜宮城で乙姫にかしずかれてヤニさがり、食っちゃ寝食っちゃ寝して、交感神経を動かさなかったから、鈍くなって老化が進んだのだ。

 私も天皇は残すべきだと思うから言いにくいが、今の天皇やその候補たちは、甘やかされすぎだ。浦島太郎さながら食っちゃ寝食っちゃ寝しているではないか。英国の皇太子のように軍隊に入れて鍛えないから、アホになる。皇族のためにつくられた学習院ですら卒業できないアタマになるのは、半ば冗談ではあるが「金太郎」や「桃太郎」に学ばないからだ。

 せめて皇太子時代に、サッカーやラグビーのように取っ組み合うスポーツ、もっといいのは空手だが、そんな鍛錬でもすればアタマが良くなっていただろうに。
 雅子も空手でもやれば、あっという間に精神病は治る。それをお妃様といって、「お大事に、お大切に」とやるから、治らない。

 ヒロヒトも軍服は着たが、軍隊で泥まみれにならなかったから、若くしてボケるしかなかった。終戦直後にヒロヒトが「9条」を支持した文書が出てきたといって嬉々としているサヨク人がいるようだが、かくのごとく生の社会の外界を反映する力すら失ったという証左でしかない。
 喜んでいる場合じゃない、哀れをもよおすのみだ。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 🌁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いつも拝読しております。

人間の限界を超える、一人では超えられない限界を超える、その手本となる童話が「金太郎」や「桃太郎」であるとの論考、目からウロコでした。素晴らしいですね。
南郷先生の空手のすごさをかいま見せていただいたように思います。
Posted by 白井奈津子 at 2016年03月12日 09:08
白井奈津子様
コメントありがとうございます。
空手のことを書いたときは、コメントがないことが多いので、今回もたぶん反応はないだろうと思っていたので嬉しいです。
Posted by 白井奈津子様へ(ブログ筆者です) at 2016年03月12日 17:32
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