2016年03月30日

技の創出過程についての雑感(2/2)


《2》
 世間では(世界中で)、「才能」というものがある、と思われている。それを疑う人はほとんどいなかった。
 しかし南ク継正先生は、「才能」を観念論であるとして否定された。ほとんどすべては「創られる」のだと。だれもが創ることができると。これがわかるかどうかが分かれ目で、分かろうとしない人がまだ圧倒的に多いので、才能の有無でしか捉えられない。

 技の創出過程における「創る」と「使う」の二重構造は、とくに意識せずとも、やっているうちにうまくなるという経験を誰しも持つので、これを二重構造で捉える必要を認めない。つまり使っているうちに創ることができるのは事実だからだ。
 例えば、野球は試合を多くやればやるほど上達することができる。試合とは使い方だが使い方をやりながらでも技が創られて行く易しさがあるスポーツなのである。

 楽器の演奏では、先生の指導を受けて、「こうやりなさい」と指示されてできるようになるのは、使いながら技を創っている。それが「いろいろな流儀がある」として現象する。

 とりわけ楽器は、半ばは楽器そのものが技の実体化したものとなっていて、楽器製作者の技の上に、演奏家の技が加えられる。その分、いわば楽に技化ができる。だからヴァイオリンでいえば、ストラディバリウスとかの名器を持ちたがる。高級な楽器ほどいい音が出せるのは事実だ。
 でもそれは自分の演奏の技の未熟さを名器で補ってもらうということである。

 そういうことをやっても演奏家として認められるからこそ、演奏家からは技の創出の理論が出せないできたのではないか。
 剣道の場合は、技は竹刀や真剣が半分は創ってくれる。しかし空手の場合は、道具を用いないで、素手素足で闘うので、すべて自分の身体を素材として技をゼロから創らねばならないために、技の創出(身体の武器化)の理論が必要になった。それだけ空手は剣道に比べて、技の創出は困難であると言える。
 このことを南ク継正は『武道の理論』シリーズの本で説かれている。

 空手は素手素足で闘う。これを試合をしながら技を創るのは至難のわざだ。想像がつくでしょう。ろくに技の使い方を知らない人間が闘えば大けがをする。だから昔は、はじめからケンカが強くて、体格もいい人間しか空手はできなかった。

 でもそれでは、本当に空手が必要な弱者、女性などは永久に勝てないではないか。弱者でも空手の技を身につければ暴漢から身を守れるのでなければ意味がない。人類は、ずっと女が弱いのはしょうがない事だとしてきたけれど…。
 才能なんてない人間でも、空手が上達できる道はないのか、と研究することで、南ク継正先生は技はまず使うことをせずに、「創る」ことに専念し、徐々に「使う」レベルへ練習を移行させる方法を考え出された。

 だから理論どおりにやれば、どんなに素材の悪い人でも女性であっても、必ず初段にはしてみせることが理論の完成によって可能になった。初段ばかりではない、指導に素直に従えば、理論にのっとって誰でも達人の域に達することができる。

 技は相手がいることだから、使えば基本が歪む。自分が使いやすいように変えたり、相手の特徴にあわせた技に変化させたりする。
 そうならないように、技の創出は、使っても崩れないレベルに仕上げなければならない。空手で言うと、空手の技を駆使して試合で闘っても、技が崩れないで、空手の技として使えるレベルを初段(黒帯)とする。

 楽器で言うと、どんなボロの楽器でも一定水準の音が出せ、また、どんな作曲家の個性的な曲を演奏しても崩れない、あるいは作曲家によって得意不得意がない、というレベルの技の創出が要求されるはずだ。そうなるには、技は「創る」段階と、「使う」段階に理論的に分けて練習しなければならないとなるはずなのである。

 子供向けのピアノの先生とかのレベルなら、適当に(?)好きな曲から練習しながらやっても通用しても、世界に通用する達人レベルのピアニストのシビアなレベルに達するには、例えばバイエルの教則本に従って、脇目も振らずに練習しなければならないのだ。

 「技」はどう創らねばならないか、「使う」ことで崩れた技はどう修復するかを理論化しなければならない。一流の演奏家は、それを一流の指導者の経験則でやってきた。それを間違いだと言っているのではなく、誰もが一流になれる指導法であるなら、「創る」と「使う」の区別と連関の論理的把握が必須なのである。

 サキソフォンの独奏している様子をYouTubeで見たことがあるが、よく体を揺すりながら吹いている。身体を揺すると音が出やすい、ということは、使い方なのである。いわば個性的に崩して吹奏しているなと、私には見てとれた。
 すでにプロの域に達しているならば個性的で構わないのだが、初心者が真似していいことはあるまい。

 土台、骨、神経、感覚器官、血液などに言及したのは、それらこそ技の創出のために欠かせない「創る」の重要要素だから。土台を「創る」、骨を「創る」…であって、これは使い方では鍛えられない。
 ショパンの弾き方がいわば一流一派なのだそうだが、ショパンは自然成長的に修得した技なのであって、もう21世紀はそれではなるまい。
 理論によって誰もがショパン以上にならなければいけない。

 音楽の世界では、これまでの名人達人は百万人に一人しかなれなかった、しかも30年かかってものにした技化だった。でも、理論で修得すれば誰でもが3年で名人の域になれる。人類の進歩はそうでなければならない。それはこれまでの修得法であった、「使いながら創る」では困難である。

 本当は音楽大学というからには、こうした技の創出過程の構造を解く研究を学問として為さなければいけないのに、ただ演奏家をつくるだけなのではないか。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(11) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
(昨日いただいた返事に対してまたこのコメントをしたのですが、二回エラーが出てしまったのでこちらで失礼します)                        てっきり、先生や先生の門下生の方も骨をコツコツ当てて鍛えているものだと思っていました。稽古を続けていて、ある段階まで到達していればいつの間にか強化されているのでしょうかね。

足(脚)の骨のくだりについては、数年前の記事をうろ覚えのまま、受け売りのみで書いてしまったのがちょっといけなかったです。この事に関してはまた調べておきます。



毎回 私のコメントにご丁寧な返事をして下さりありがとうございます。

Posted by 金剛 at 2016年03月30日 07:41
筆者様

今回の記事は、今読ませて頂いている「心に青雲 藝術論集」と併せて、私のような音楽愛好者に新しい音楽の見方とこれから進むべき道筋の明確な指針となるものです。

私はホルンを三十数年、複数のアマチュアオーケストラ、吹奏楽団で演奏し続けています。
その中で生じる指導者、メンバーの技量の差は、才能の一言で片付けられています。その結果は巡り巡って、本来その楽団が持っているであろう演奏技術が最大に発揮される事の無い演奏会と称される催し事が開催されることとなります。
楽団にもよるのでしょうが、数か月から一年の時間をかけ、決して小さくはない費用で演奏会場を確保し、入場料まで頂いて演奏を披露するのですから、最大限に演奏を磨いてこそ価値が生まれるのであって、そうでない催し事にどうして価値が見出せるのでしょうか。

この様な状況の中、この十数年、半ば諦める事でしか演奏活動を続ける方法はないのかと考えていました。しかし、理論によって、新しい道が開けるのだと感じています。

吹奏楽器を演奏する上で「息の使い方が一番大事です。」という言い回しは本当によく使われますが、息の何をどの様に使うのか、まったく訳のわからない言い回しです。すこし具体的に「腹式呼吸で。」「腹筋でしっかり息を支えて。」という言い方もありますが、いずれも同じこと。なぜなら、吸入した空気は肺に入りますから。であれば、「胸式呼吸で。」と言ってみますが、その結果は残念ながら異端者扱いとなります。
「息の使い方」とは、吹奏楽器で楽音の源となる振動を発生させるための空気の流れを、安定的にコントロールする方法。とでも言えるのでしょう。そのためには、腹式呼吸で言い換えられる肺下端の横隔膜はもちろんですが、肺を覆う肋骨等の骨、その周辺の筋肉、それらの使い方は同等以上に重要です。
この考えてに基づいた呼吸法は三十年ほど前に、今はご逝去されたテューバ奏者松下晃一先生から教えて頂いた呼吸法ですが、残念ながら知る限り、今だ私と数人の仲間でしか共有されていません。
             
                   中野瑞穂 
Posted by 中野瑞穂 at 2016年03月30日 14:08
僕は音楽のことはわかりませんが、呼吸は全てに共通するのではないでしょうか。正しい呼吸を習慣化することにより、関連する筋肉などが適切に発達、健全な肉体を維持できると思うのであります。いつもありがとうございます。今日も健やかにお過ごし下さい。
Posted by アルバート・ダシュラー at 2016年03月30日 18:07
金剛 様
先に申したとおり、空手家は骨は鍛えますが、頭蓋骨は鍛えられませんし、ほかの部位とは強度が違うのです。
頭蓋骨は脳を守るために最も固いわけですが、しかしそのためにボクシングで頭部を殴ると、例えばアルミの弁当箱に豆腐を入れて床にたたき落としたようになります。つまり豆腐は弁当箱の中でグチャグチャになります。

ボクシングも同様で、頭蓋骨のために脳が中で揺すられ、固い頭蓋骨に当たって壊れるのです。そういう危険性のあるスポーツです。
若いうちは大泉門が空いていて、衝撃を吸収できますが、年取って大泉門が塞がると危険が増します。

Posted by 金剛様へ(ブログ筆者です) at 2016年03月30日 19:36
アルバート・ダシュラー 様
私の論考の主旨をまず理解してください。失礼ながら、あなたがおっしゃることより高度な論理を述べています。
それと、「習慣化」と「量質転化」とは論理のレベルが違います。
Posted by アルバート・ダシュラー 様へ(ブログ筆者です) at 2016年03月30日 19:40
中野瑞穂様
コメントありがとうございます。
その腹式呼吸にせよ、胸式呼吸にせよ、理屈はあれこれ言われますが、本当にそうなんでしょうかね。胸式呼吸より腹式呼吸のほうがリラックスできるって、ウソじゃないのでしょうかね。誰がどうやって確かめたんでしょう。
Posted by 中野瑞穂様へ(ブログ筆者です) at 2016年03月30日 19:48
空手の技や楽器の演奏など、身体が関わるものについてだけ述べられていますが、
技の「創る」「使う」に関しては、知的活動、
例えば作曲や学問の修得などについても言えるのでしょうか。

もしそうだとしたら、具体的な方法(特に作曲に生かせるもの)を知りたいです。
Posted by Yuuri at 2016年03月30日 23:45
筆者様
ご返答、ありがとうございます。
胸式呼吸は肩に力が入るからダメとか、腹式呼吸でないと息を支えることができないとか、吹奏楽器を演奏する上での奏法や呼吸法は、指導者や部活動の先輩からの経験や言い伝えが引き継がれているのが現状の様です。ご指摘のとおり、確かめた人はいないと思います。

呼吸法に関して、「リラックス」という言葉を使われたという事は、筆者様も吹奏楽器を演奏されるのでしょうか?その視点を持っていらっしゃる奏者であれば、高い演奏技術をお持ちだと推測されます。
もしそうでなければ、なぜ専門分野(?)の核心がお分かりになるのか不思議です。

                  中野瑞穂
Posted by 中野瑞穂 at 2016年03月31日 15:56
中野様

 リラックスというのは、だいたい習い事全般で言われることでしょうし、呼吸法についてちょっとネットでも確認したのです。武道空手でも言われることです。
 しかし、そのリラックスさえもが本当は技化させるのだということが、誰もおそらくわかっていないのです。
 上達した人が自分は演奏のときにリラックしているからうまく吹ける、弾けると思ったとしても、初心者にはできないことです。だから上達した先輩がリラックスしろと初心者に教えてもなかなかできないのを、ではどうするか、が上達論なのです。

 そんなことは武道空手をやればすぐわかります。
 「胸式呼吸は肩に力が入るからダメとか、腹式呼吸でないと息を支えることができないとか」それって本当でしょうか? 中野様がおっしゃるように、ただ先輩から引き継いで言われてきているだけのことではないかな…。なぜなら、誰も吹奏楽器の上達論、演奏論、技術論をものした人間はいないじゃないですか。

 楽器の上達論、演奏論、技術論ができているのなら、それはどんなスポーツでも藝術創作でも当てはまる理論になるはずですが、そんなものがあるのですか?
 こうしたほうがうまく上達するとか、上手に演奏できるという程度の指導法がないとはいいませんが、理論化できたのは、世界で南郷継正先生たった1人なのですから。

 以前、本ブログでディズニー映画の「ダンボ」を俎上にして、認識論を述べたことがあったのですが、YouTubeででもご覧になって、ご参考にされてはと思います。
 子象のダンボは、カラスの羽根を持てば空が飛べると信じて、空を飛んでみせます。それがいざサーカスで飛ぶ途中で羽根をなくしてしまう。ダンボは自信をなくし、落下していきます。地面に激突するというとき、友だちのネズミが必死に、君は本当は羽根なんかなくても飛べるんだと認識を変えます。それで見事自力で飛べたという話。

 これが要するに指導の要なのです。オコエ瑠偉選手のところでもブログで説きましたが、要するに被指導者にどういう認識を持たせるかを抜きにして、やれ胸式がいいの腹式がいいのといっても、些末な話です。

 南郷先生は、ご飯を茶碗によそうときでも技術論としてやれと説かれます。ご飯をよそう、箸を使う、茶碗を洗う、…それらを演奏家たちは誰も自分の専門楽器の上達論や技術論としてやらないでしょう? 楽器に熱中するだけでは? 
 ダンボのアニメを観ても、これが指導論だなとか、認識論だなと捉えることができるには、飯の食い方とかそうした日常を科学することを続けなければわかってはきません。
Posted by 中野瑞穂様へ(ブログ筆者です) at 2016年03月31日 16:37
Yuuri様

>技の「創る」「使う」に関しては、知的活動、例えば作曲や学問の修得などについても言えるのでしょうか<
     ↓
 その件についてはこれまでブログで何度も繰り返し説いてきました。「もしそうだとしたら」ではありません。当然「そうです」!
 だから南郷學派の学者志望の人たちは、全員、空手の修行が必須なのです。空手をやらなければ、知的活動や作曲、学問はできない、と断言してきているのです。

 また機会があればブログに書くことにやぶさかではありませんが、今は書く予定がありませんので、以下簡単に。
 作曲は専門外ですけれど、藝術とは創作者の心象風景を鑑賞に堪えるレベルで外化する(表現する)ものですから、当然に音楽でも、その音の世界の心象風景の如何が問われます。

 おそらく音楽学校では、作曲や演奏のノウハウは満点に近く教える実力はあるでしょうが、そこまでであって、創作する(演奏する)人の心象風景をいかに見事に創るか、その理論はないのでしょう?
 極端と思われるかもしれませんが、ベートーヴェンやモーツアルトの音楽にただ感動したってしょうがないんです。

 「感動できるのが音楽だ」とは言えますが、本当は、自分の心象風景を見事に磨き上げるために、ベートーヴェンやモーツアルトの音楽を聴くのです。ベートーヴェンやモーツアルトの音楽の個別性で感動するだけで終わらせずに、彼らの一般性を尊敬できるレベルで捉える努力が、心象風景を見事にする道であって、それ以外に見事な作曲ができるようになる道はないのでしょう。

 さらに言うなら、Yuuriさんは、ご自分が儀表(手本)としたい作曲家がたぶんおありでしょうが、その方のある曲を、どれくらい聴きますか? 100回? 1000回? それも続けてですよ。例えば、東京から大阪まで東名高速で運転して行く間、ずっとCDでもいいですからくり返しくり返し、同じ曲を聴き続けたことがありますか? 

 それによって、どういう量質転化が起きるか、実験してみてはいかがでしょう。十分これが作曲に生かせると思いますよ。
 私たちの武道空手では、そういう訓練を指導者になるためにやるのです。作曲するとは、本質的には他者を「指導」することです。なぜなら、藝術とは鑑賞者が要求しているものに応えるだけでなく、本当は要求しなければならないことにまで応えることだからです。
 作曲と指導は同じことです。
Posted by Yuuri 様へ(ブログ筆者です) at 2016年03月31日 17:03
筆者様

早々のご返答、ありがとうございます。
こんな事は経験者じゃないと知り得ないという思い上がりや狭い視野が私にはある様です。

おっしゃるとおり、吹奏楽器に限らず、おそらく日本に限らず音楽界に上達論、演奏論、技術論等を理論化した人はいないと思います。斎藤秀夫先生が書かれた「指揮法教程」という指揮に関する優れた書物がありますが、それでさえ指揮した結果である楽団の演奏や聞き手の受け方までは体系化されて述べられてはいないと感じます。

南郷継正先生のお名前は貴ブログを読ませて頂く様になって、初めて知りました。まさか、空手と音楽がこの様に結びつくとは夢にも思っていませんでした。
アニメひとつの捉え方一つを例にとっても、今まで自分を否定するところから始まるのでしょうね。
                中野瑞穂
Posted by 中野瑞穂 at 2016年03月31日 17:33
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