2016年04月01日

続・「なでしこ」落日の責任はどこに


 女子サッカー日本代表チーム「なでしこ」の敗退について3月23日に書かせてもらったが、少し補足してみたい。
 私の論考に対して、女性をバカにしているようだが、男だって…と揶揄的なコメントもあったからだ。それは私の主旨とは違う。

 前回も述べたように、女子の集団は統括も指導もやっかいなのである。「わがまま、嫉妬深い、妬みそねみ、派閥をつくる、互いに足を引っ張る、チクる、実力ないのに目立ちたがる、すぐ自惚れる、指導者を独占したがる…などなど、それはもう大変な“生き物”なのである」と書いたとおり。
 むろんだからとて、男が女より優秀だとは言っていない。誤解なきよう。

 ただ、前回は新聞記者どもが、そういう女性の特質を利用して愚痴や監督批判を引き出して、チームの和を壊したと述べたまでである。W 杯での優勝時は、まだ「なでしこ」がさほど有名でなく、誰もがまさか優勝するとは思っていなかった。W 杯以後に、大衆は「なでしこ」のことなら何でも知りたがるようになり、マスゴミもそれに同調するようになった。
 チーム内に不協和音があれば、それっとばかりにマスゴミの餌食になる。

 当然、アメリカその他、ライバルチームもあの手この手でチームの和を壊す陰謀を仕掛けてくる。まして白人どもは、日本人が勝つことが許せないのだから、ありとあらゆる妨害工作をしてくると思わなければいけない。監督と選手を離反させることもためらうわけがない。それでマスゴミの記者を使って、ゆさぶりをかける。
 前回引用したスポニチの記事も、そうした工作の一環とも疑ってみるべきなのだ。

 それにまずいのは、「なでしこ」は国内チームからの寄せ集めであることだ。Aチームから選ばれた選手と、Bチームから選ばれた選手は、本来凌ぎ合うライバル同士であり、もともと仲は良くない。しかも誰が代表で試合に出られるかで、ギャラが変わって来る。試合に出れば在籍チームから認められるが、代表に選ばれても出番がなかったら、給与はアップしないだろう。
 カネがからむのだ。日本のため、と思って団結はするが、それも勝ち抜くためである。

 昔、1964年の東京オリンピックで、女子バレーチームが金メダルをとった。大松博文監督率いる日紡貝塚チームがそのままオリンピックに出た。
 当時、日紡貝塚という企業チームに丸投げするのではなく、いろいろな社会人チームから優秀な選手を選抜して、代表チームにすべきだとの意見があった。

 しかし最後は、単独で世界各地の試合で勝っていた日紡貝塚に任せるべきだとの世論が後押しもあり、大松氏がそれなら俺は監督を引き受けないと言ったこともあって、寄せ集め代表チームは見送られた。優秀な選手を選抜しろとは、スポーツも知らなければ指導も知らないアホのいうことだった。日紡チームに任せて大正解だった。

 日紡選手達は、辺鄙な田舎で合宿生活をしていた。ごくたまに気晴らしといって大阪市内に出向く程度。それも監督と一緒。企業のほうも大事な嫁入り前のお嬢さんを預かっているからと女性の勝手にさせなかった。だからこっそりマスゴミの記者が選手に逢うことができなかった。いい時代だった。

 彼女等は会社の仕事をこなしてから夜間にシゴキぬかれていた。「鬼の大松」とまで言われるほどに、情け容赦なく、男以上の激しい練習をやりぬいた。大松氏は女をあそこまでしごくとは、とずいぶん批判も浴びた。すさまじいバッシングだったが、勝つことで評論家どもを黙らせ、「東洋の魔女」とまで讃えられた。

 「東洋の魔女」たちからは、今回のなでしこのようなチームの不協和音は洩れてこなかった。社会には戦争体験者が多く、しごきは当たり前とする風潮がまだ通用した。今ではできないかもしれない。実際、できなくなって、なでしこは柔になって負けたのだ。
 当時の東京オリンピックは、敗戦後、輝ける日本を取り戻すべく、オリンピックを成功させたいとの思いが、国民に共有されていた。

 とくに女子バレーの宿敵はソ連チームだった。ソ連には日本人ならみんな恨みを抱き、なんとか一矢報いてくれと日紡貝塚に必勝を願っていた。彼女たちもカネのためではなかった。婚期が遅れるとの不安のなか、日本のためにと必死に戦ったのである。
 そんな気概は、現今の女子サッカー代表にはあるまい。

 日紡貝塚チームがなぜ東京オリンピックで金メダルに輝いたかというなら、それは彼女らが大松監督を心の底から信じたからなのである。彼女らもなにせ先に言ったような女性の一般性としての性格をもっていたから、チーム内にいつでも不協和音が起きる可能性はあった。
 しかし、大松先生について行けば勝てるとの信念があったから、どんなシゴキにも耐え、婚期が遅れることも忍んだのだ。

 日紡貝塚選手にとって大松監督は神であり、彼の言葉は神のご意志と受け取っていたはずだ。試合に出れば勝つのくり返しが、いやおうなく信じさせたからなのである。だから東京五輪で、金を取れたのは寄せ集めの優秀な選手団よりも、チームの団結があったからというより、選手が監督を信じ込んだその一点が大きかった。
 
 私もささやかながら空手の指導をしてきたが、伸びる人間は私の指導を信じたからだ。信じればうまくなるのは、道理である。その点では、男より女の方が感情的だから、信じるとなれば徹底する。男はなかなか指導者を信じない。

 おそらく大松監督はまず乙女らを「監督を信じれば強くなる」と分からせたのだろう。シンクロナイズドスイミングの井村雅代コーチもそういう指導なのだろう。「なでしこ」の佐々木監督も、ドイツのW杯で勝つまではそれができたはずだ。それが雑音が混じり、新しく代表に入ってくる若手は、そうではない。疑心暗鬼でやってくる。

 しかし、佐々木監督の場合は、次のロンドン五輪サッカーで金メダルを取り損ね、しだいにメッキが剥げてきた、選手が監督はメッキだ思ったらそれまでである。とうとうダメになった。佐々木氏も有名人になり、指導に自信をもつようになったろう。押しも押されぬ名監督のレッテルが貼られ、選手を信じさせるより、俺がやればある程度は勝てるさとの慢心が起きてきたのではないか。

 大松博文監督は、時代もあったがやたらマスゴミに登場しなかった。大阪府貝塚市の田舎にこもって、ひたすら家族も犠牲にしてバレーの指導に明け暮れた。佐々木監督は、言ってみればスターになってやたらにマスゴミに露出した。東京五輪のころ、日本中の大衆が大松の私生活なんか知らなかったし、知ろうとも思わなかった。しかし佐々木監督は、サッカー以外のことでもやたらにマスゴミに出ていた。あれがいけない。下劣なマスゴミはなんとかして、佐々木監督や澤選手の動静や話をもらおうとしたからだが。

 選手もそうであって、日紡貝塚の女子はバレー以外でマスゴミに出ることもなく、当時はPCもなかったから自分でブログをつくって私生活を見せるなんてことはなかった。
 一流への道を歩きたいなら、私生活を大衆にさらしてはいけない。
 私生活をさらけだせば、人気が出る。そうすれば大衆レベルに落ちるのである。

 だから佐々木監督は、「なでしこ」の選手たちにはブログを禁じなければならなかった。驚くべきことに彼自身がブログを開設して私生活をさらけだしている。まだ凡将であったゆえんである。そんなことをすれば選手が監督を信じなくなる。自分たちととんとんの男だとみてしまう。「なでしこ」がリオ五輪予選で負けたのは、彼らが平気で私生活をブログでさらけ出したからだと言っても言い過ぎではない。
 「落ちた偶像」という映画(キャロル・リード監督)があったけれど、佐々木監督は自ら偶像から落ちたのだ。

 大松博文監督に指導された日紡貝塚の選手たちは、いうなれば四六時中監督と一緒だった。バレーだけの付き合いではない。だから選手たちは見事に大松のアタマになれたし、そのアタマで戦えたのだ。「なでしこ」はそうではない。国際マッチがあるときだけ、集合する。それではなかなか戦いに集中しても意志一致はむずかしい。

 国際マッチはどこの国も寄せ集めの選手集団だから条件は同じであるが。
 女子バレーはさほど活躍できていない。それは代表チームを選抜にするのも一因だろう。優秀な選手さえ集めれば勝てるほど勝負の世界は甘くない。かつてプロ野球の巨人がそれで失敗した実績があるのに、スポーツ界は未だに学ばない。

 せんだって、琴奨菊は横綱になれないとブログで予言しておいたが、そのとおりになったでしょ。その種明かしは簡単だ、彼が勝負の世界に私生活を持ち込んだからだ。結婚の箔付けにと初場所で星を買ったに違いなく、場所後に美人妻とテレビや地元の祭りに出ずっぱりになった。勝負師が結婚なんて私生活をデレデレ見せるものではない。だから、琴奨菊には二度と横綱になる目はない。

 

posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
東京五輪後、大松氏は選手たちの旦那さん探しに奔走していたというエピソードもありましたよね。
コーチとしては鬼でも人間としては鬼と真逆…だったのでしょうか。

有名人のブログってごく一部を除けば面白くないと思います。あ、このブログはとても面白いですが(笑)。ファンの人が楽しみにしているから書いているんだと反論されそうですがそれを考慮しても読む価値なんてあまりないと思います(笑)。

昔なら女性にありがちだった欠点でも最近だと男達にまで目につくようになってきたと感じているのは私だけでしょうか?
正直に申し上げますと、過去の自分自身の言動にも思い当たることがあります。
Posted by 金剛 at 2016年04月01日 12:45
貝塚市に生まれ育った者です。実は貝塚には戦後も赤線がありました。それは日紡の裏手で今でも往時の建築が少し残っています。赤線で働くのは日紡の寮に暮らす女子社員で、昼間は紡績工場に勤務、夜と非番の日には赤線で小遣いを稼いでいました。当時、貝塚の赤線は積極的に営業を掛けていて、開業間もない伊丹空港のタクシー乗務員にチラシで宣伝し、空港から直接赤線に向かう客も大勢いました。中でも韓国人の客が多く、赤線の後には鶴橋で飲むのが定番でした。
Posted by 貝塚市長老 at 2016年04月01日 18:02
貝塚市長老様
コメントありがとうございます。
そうだったのですか…。調べて見ると、貝塚の赤線は昭和33年で終わってますね。東京五輪のころにはもうなかったのですね。

Posted by 貝塚市長老様へ(ブログ筆者です) at 2016年04月01日 19:50
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