2016年04月11日

保科正之 〜心に青雲の治世


 先日、舛添都知事が勝手に都有地を韓国学校に実質上くれてやる決定をなしたことについて、どうぞ都庁へ抗議メールを送ってほしいとお願いした。
 舛添は昨年秋、ロンドンとパリへ職員を多数引き連れて総額5000万円もの大名旅行をやって、都民の反発をくらってもいる。2014年度 6回の「海外出張経費」は、合計約1億8000万円にも及んだ。
 政府と関係なく勝手に、媚韓外交、媚中外交をやって、なにさまのつもりだろうか。

 その傲慢、乱費、開き直りは目にあまるものがある。
 つまりは、民主主義はこういう無様なことにもなる。都知事選挙で舛添に投票した人たちは、何も考えず、テレビで有名な人だからいいか…という低度で投票したにちがいないのである。
 どうしたって衆愚政治に落ちる。

 さて、今日は東京都のぶざまさの口直しに江戸の昔話でも書いてみましょうか。保科正之の話である。以前にブログで発表したものを大幅に書き直してある。
 言ってみれば彼が東京都の初代都知事のようなものであった。というのは、歴史好きな人なら常識であろう。そして彼もまた「心に青雲」を抱きつづけた人間であった。

 保科正之は、2代将軍秀忠の側室の子である(幼名、幸松)。異母兄の徳川家光にかわいがられた。家光が死ぬ間際に、4代将軍となる家綱がまだ弱年のため、後見人というか摂政の立場で政治を取り仕切ってくれるよう懇願していったほど、人格を見込まれた人物である。秀忠は正之をわが子と知りながら、正妻の嫉妬が怖くて認知できなかった。

 それで正之は、信州高遠藩に養子として迎えられ、やがて藩主となる。ついでいったん山形へ転封されてから、最終的に会津藩に落ち着くのである。保科家は後に将軍から許されて松平姓を名乗る。会津藩主でありながら、家光に託された幕政を担うため、保科正之はほとんど会津に帰らず、江戸でさまざまな改革を行った。

 保科正之は、幕閣の老中として何を行ったか。
 人口が激増した江戸の上水道確保のため、玉川用水の開削を決定。これで多摩地区の農業用水としても利用され、江戸近郊の農業が発達した。明暦の大火のあと、両国橋を架けさせ(それまでは単に江戸防衛上のため、隅田川には千住大橋しかなかった)、上野に広小路をつくって火除地とした。明暦の大火では保科正之は陣頭指揮をとった。

 このとき江戸城も西の丸を除いて多くを焼失したが、幕閣らがまず天守閣を再建しようとしたものを、天守閣は役に立たないと主張して許さず、町方の復興を優先させた。東京にオリンピックを誘致して、ゼネコンに利益誘導しようとする愚劣な石原前知事に聞かせてやりたかった。現在の舛添にいたっては、石原より悪い。

 これが保科正之がとった“都知事”としての大きな政策であるが、国家レベルでは家綱政権の「三大美事」と言われる改革もある。それは「末期養子の禁止の緩和」「大名証人制の廃止」「殉教の禁止」である。これらを詳しく説明していると長くなるので割愛するが、この「三大美事」によって江戸幕府は基盤が安定し、社会不安の芽をつむことができたのである。実に人間性あふれる施策であった。

 さらに保科正之は、本来の会津藩での政治でも優れた手腕を発揮した。例えば食糧備蓄制度である「社倉制度」を定め、これで自藩だけでなく隣藩の飢饉をも救っている。また、今日でいう救急医療制度や、残虐な刑の禁止、年金制度までつくり、「会津藩家訓」十五ケ条も制定している。

 「会津家家訓」のなかには「婦人女子言、一切聞くべからず」というものもある。女性諸君は激怒しそうであるが、これは当時、藩主は正室以外に側室を置く習わしであり、しばしば世継ぎ問題などで嫉妬や権力欲にかられた女が政治にいらざる介入を図ることがあったからである。実際、保科正之の場合も、正妻が亡きあとの側室お万が、別の側室の生んだ子に嫉妬して毒殺を企てる事件が起こっている。その体験があって、加えられた1条とされる。

 保科正之は、徳川300年の安寧の礎を築いた重要な人物であり、四代将軍家綱のあとに五代将軍となった綱吉という、これまた名君を生む地ならしをしたと言えよう。戦国の遺風残る殺伐とした徳川政権を、この保科正之と綱吉の二人で、平和な暮らしやすい社会を続けられる政治の基盤を創ったのである。
 綱吉を「犬公方」と言って誹るのは歴史を知らない。

 保科正之ほど、無私の政治家はいないと、今日でも高い評価を得ているのもむべなるかなである。彼の政策があったればこそ、以前『逝きし世の面影』(渡辺京二著)で紹介したように、外国人が絶賛した世界に稀な優れた日本人が誕生したのだ。
 そして、松尾芭蕉が俳句を生んだのも、井原西鶴が『一代男』を書いたのも、保科正之の政治のおかげである。

 彼は刑法も実に“近代的”な改革を行い、それまでは裁く人間の恣意に頼りがちだった判決を、誰が担当しても同じになるよう整備している。だから大岡越前守なんてのは、法整備の面からは大したことはない。判決が個人の裁量に任されているようでは、いけないからだ。

 この保科の改革という地盤があって、次の綱吉時代の「元禄文化」が華開くのである。また、さらに会津藩は周知のごとく、幕末に佐幕派として薩長と戦って悲惨な結末を迎えることになる。しかし、司馬遼太郎が「もし会津藩がいなかったら幕末の歴史はずっと嫌なものになっていただろう」と書いたように、彼らの筋を通した戦いと生きざまは、日本史の誉れといっていい。ユダヤの手先・司馬遼太郎には言われたくないが…。

 なにしろ会津戦争で新政府軍は戦死者の収拾・埋葬を禁じ、腐敗するまま山野、市街に無残な姿をさらさせた。見かねた地元民が秘かに白虎隊の少年たちを埋葬すると、掘り起こして元の場所に捨てろと命じる残酷さであった。これを命じたのは福井藩(あの卑怯に立ち回った松平春獄の藩)の久保村文四郎で、彼は後に会津藩士に斬り殺されている。当然の報復だ。

 ただ、会津の戦死者が野ざらしにされた話は異論があって、実際は藩士・伴百悦が埋葬事業をやったとも言われる。江戸時代は死体の処理は賤民がやらされていたから、戦死者の埋葬も彼らがやるしかなかった。それで武士であった伴百悦は自ら賤民の身分に落とし、懸命に敵味方の分け隔てなく埋葬したという。それをも妨害したのが久保村文四郎だったとか。

 この久保村の残忍さは彼個人の資質というより、おそらくはユダヤ=フリーメースンの人を人と思わぬ仕打ちに従ったものと思える。
 これとの対比で見れば、会津藩の人間としての素晴らしさが際立つのであり、その会津魂を育てる基礎を創ったのが、保科正之であった。

 明治維新以後、日本はユダヤ=フリーメースン=国際金融資本の手先となった長州が支配することとなり、例えば伊藤博文、山県有朋というように続く政治家たちこそが、長州を代表する悪の手先であった。いかに保科正之が育てた江戸文化と違ってしまったかに、われわれは愕然としなければなるまい。

 明治以後、日本を支配した長州閥は、会津の精神を継承させまいとし、保科正之の事績や会津武士の高潔さなどは教科書に掲載させなかった。つまり会津に顕現されていた日本人の優秀さを、ユダヤは何としても破壊したかったのである。単純な図式でいえば、会津武士は人間性であるが、ユダヤと長州は悪魔だった。

 現代はユダヤの悪すなわち、金権万能の時代になってしまった。だからわれわれがユダヤの金権世界支配から脱して、本当の人間に立ち返るには、会津魂の復活が、あるいは保科正之のような政治家の登場がなされなければならないのである。

 ここで私たちは、深く考えなければならないのではないか。保科正之は大衆に選挙で選ばれた人間ではない。江戸時代に民主主義はないのだから当たり前だ。それを私たちは封建制だとか、暗黒時代だったとか言うけれど、それは正しいのか、である。
 時代劇といえば、悪代官がいて、侍が威張り返っていて、百姓は年貢で苦しめられたとする設定ばかりだが、実際はかなり違った。

 白土三平が描いた『カムイ伝』自体は物語としては傑作としてもいいが、江戸の真実とは別である。白土の場合は、サヨク史観の偏見に満ちている。

 何度も本ブログで取り上げたが、江戸期にやってきた欧米人たちは一様に日本人の優秀さ、政治の安定を驚嘆しているのだ。
 先人の築き上げた歴史があったればこそ、現在の日本人が外国に出ても尊敬されるのであり、都民もきちんと税金をはらっている社会なのだ。それをいいことに舛添は、日本の品位を落とす馬鹿を続けている。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 🌁| Comment(6) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
選挙も、昔はよかったのかもしれないですが。今のように、候補者が全部ブーという時には、にっちもさっちも行きませんね。

あげく、票のカウントにインチキをするのでは・・・・何をかいわんや。

今の状況の、どこかにテコ入れしても、どうにもならないですね。

ガラガラポンで全部潰さなければだめではないでしょうか?

そういう時に、保科正之のような偉人伝が社会に残っていることが大事だと思います。

話は別ですが、世の中のことに女が嘴突っ込むとろくなことはありません。保科正之は偉い!
Posted by 神戸だいすき at 2016年04月11日 06:34
今のような状況では昔に戻ったとしてまたユダヤの策に嵌るかもしれませんね。
Posted by たていと at 2016年04月11日 09:31
はじめまして。近年、国際的に我が国への注目あ集まり、外国人観光客など増加するのを見て、私もまさに「先人の功績による」と考えていました。今に生きる我々はここを勘違いしないよう自戒し、我が国の良き伝統を育まなければなりませぬ。
Posted by 重岡繁 at 2016年04月11日 11:30
神戸だいすき様
保科正之は偉かった、舛添はクソだ。
Posted by 神戸だいすき 様へ(ブログ筆者です) at 2016年04月11日 14:42
たていと 様
そうでしょうね。
Posted by たていと様へ(ブログ筆者です) at 2016年04月11日 14:43
重岡繁様
コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、われら先人の恩、忘れまじ。日本に生まれた幸せをかみしめ、危険分子を早く排除しなければ。面目がたちません。
Posted by 重岡繁様へ(ブログ筆者です) at 2016年04月11日 14:46
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