2016年04月14日

絲山秋子、書店で見せ物になる愚


 唖然、呆然とはこういうことを言うのか…。
 毎日新聞4月7日付夕刊に、「群馬県高崎市在住の芥川賞作家、絲山(いとやま)秋子さん(49)が今月1日から前橋市内の書店に「公開書斎」を開き、人気を集めている」との記事が載った。

 絲山秋子は06年に「沖で待つ」で芥川賞を授賞。14年から高崎経済大の非常勤講師を勤める、となっている。むろん、読んだことはない、読みたくもない。公開書斎なんてやれば、ますますもともな人は遠ざかり、愚劣な大衆だけが寄ってくる。

 記事によると、公開書斎は名付けて「絲山房(ぼう)」。書店主と話し合って、「本屋の持つ可能性を広げたい。気軽でライブ感のある企画を」と意気投合して、週に1、2回のペースで滞在して執筆するそうだ。「訪れた人は人気作家の執筆の様子を生で見たり、直接会話したりできる。北海道から駆けつけるファンもいるというその魅力とは−−。」
 魅力?? と言われただけで嗤っちゃう。

 こんなものはただのナルシズムじゃないか。49歳にもなってみっともないと思わないのか?
 以下の動画で彼女自身が説明している。
https://www.youtube.com/watch?v=dLnQsLwAOlg

 本棚に囲まれた空間に小さめの机と椅子が置かれている。並んだ本のすき間から中にいる絲山秋子がのぞける。房の前の案内板には「動物園のように観察したり、痕跡を見つけに来ていただいても。一段落したら、お茶でも飲みに行きましょう」と、書かれている。
 新聞には写真も載っていたが、たしかに動物園だ。何が楽しくて檻に入って見せ物になるんだか。

 絲山は机に向かって、水性ボールペンですらすらと書いていく。「普段から喫茶店や電車内での書き仕事は慣れているので、意外と集中できますよ」だとか。
 集中できるかどうかなんて重要ではない。
 「房の前にはファンとおぼしき人が数人。30分後、ある女性が本棚越しにおそるおそる声をかけると、絲山さんは笑顔で応じ、女性が持参した本にサイン。その後、おすすめの小説について会話を弾ませていた。」

 まあ、その低度の「ゆるふん」みたいな文章を書いているんだろう。私は性根を入れた文章を書こうとするときは、勝負は午前中でしかない。たしか丸山健二氏も執筆は朝と午前中に集中させると書いていたが、そうでなければ頭はフル回転はしてくれない。絲山みたいに午後から、ざわざわする書店の中で、動物園のサルのように見られながら、しかもファンから声をかけられて執筆を止められて「笑顔」になれる神経はどうかしている。

 それはいかにもできるだろうが、中身の低度が張りつめるような緊張感のない文章だからできるのだ。集中して自分の世界に閉じこもらなければ書けないのに、パフォーマンスをやりながらでは、おのずと気が散るし、考え抜くことはできない。

 軽いエッセイならいいだろうが、問題はこれが、自分の人生、恋愛、学問、藝術といった、重いテーマに関わったときなのである。
 学問でいうなら世界的発見とか、藝術なら歴史に残る作品を創るとかは、雑踏のなかで執筆できるようなレベルではなくなる。

 例えば、クラシック音楽の超一流のオーケストラに所属する演奏家がいたとして、気晴らしにとばかり街のパチンコ屋に入り浸ったとする。これは恐ろしいことになる。平気でパチンコ屋に入れる認識を創れば、これは下劣なパチンコと相互浸透し、やがて量質転化を起こして、高貴で格調あるべきクラシック音楽の演奏ができかねる事態になる。
 落ちたことに自分は気が付かなくても、同じ楽団員や指揮者には見て取れ、観客にも見抜かれるようになる。そのとき気づいてももう遅い、量質転化してしまったからだ。

 以前紹介した話だが、作家・丸山健二氏が若いころ、ある編集者に文壇関係者が集まるので知られる新宿の飲み屋横町に連れていかれた。

 「編集者が嫌がる私を連れて新宿のゴールデン街にある、関係者の溜まり場へ案内した。文人とか文化人とか呼ばれることに何の抵抗もないどころか、それを歓迎する人々にはオアシスのような空間であったのだろうが、しかし、私には吐き気を催すほどのおぞましい場所でしかなかった。

 歌人だとかいう、醜く老いた擦れ枯らしのマダムと、彼女の下で働きながら新劇の女優をめざすインテリぶるのが好きな軽薄な若い女たち。作家や評論家たちの偉そうな、そして腹の探り合いのような、喋れば喋るほどお里が知れてしまう、虚勢を張った、キザな会話。自分の声に酔い痴れながら歌う歌。
 こんなところで文学論や芸術論と戯れて一体どうするつもりだと思った。そんな暇があるなら、家に帰って書いたらどうだ。」


 日本の「文化人」と呼ばれる連中は、そういうところに入り浸るのになんの抵抗もないバカどもばかりである。多くはサヨクだ。
 私も二十代のころに、友人に連れられて1〜2度ゴールデン街のそうしたバーに連れて行かれたことがあったが、とてもじゃないがなじめなかった。
 こんなところに入り浸っているのが文人や大学教授かと驚いた記憶がある。以後、誘われても断ったしそういう場所を好む友人とは絶縁した。

 愚劣な連中と相互浸透し、やがて量質転化して「ゴールデン街」の匂いが染み付いた人間になる。まさに朱に交われば赤くなる、である。赤くなったら元の色には戻れない。これが量質転化の怖さである。
 絲山秋子は、当然、日本文学史に名を残すレベルは志していないのだろう。だから世俗まっただ中の本屋で人前に己れをさらけ出せるのだ。

 私たちは、日常生活のなかでは、やむを得ず近所付き合いをしなければならず、仕事で下劣な人間と関わらざるを得ないことがある。どこか山奥の禅寺にこもってしまうわけにはいかないのだから。だが、世俗になじむ恐さを自覚しなければならないのだ。
 絲山秋子が書店で書いているふりをしているときに、見に来る女どもなんかは、文学のなんたるかも知らない、ただの夢見る乙女なのだ。

 どうしたらいいかと言えば、これ以上はないというほどの優れた指導者に師事し、常に高貴な高い志に触れ、格調の高さを失わない書物や藝術に触れて、そうしたものと相互浸透しないではいられない人間に自分を量質転化させる以外にはあるまい。

 何か汚ないものに手で触ったら、石鹸で洗うだろう。それと同じことを認識の場合も実践しなければならない。書店の雑踏にまみれるとは、作家にとっては汚れ以外のなにものでもない。忠告してもわかるまいが、どうしたら認識の汚れを落とせるかを考えておくべきである。例えば新聞やテレビを見ないわけにはいかないとしても、見たらそれは心にウンチがくっついたようなものなのだから、汚れを取り除いてきれいにしなければ恐ろしいことになる。

 地域で活動する人がいる。老人会や婦人会や子ども会を盛んにしたりすることには意義がある。
 だが、たいてい地域に住む人間はいわゆる大衆であって、高貴さ、思想性の高み、志、清冽、情熱、誇りなどという概念とは縁遠い連中の集団なのだ。ゆえに、もしこうした大衆と関わらざるを得ないとしたら、そのときはしかたなく便器を拭いたと考えて、あとで手を洗うように、ココロとアタマを高みにするべく洗うというか、引き上げておかねばならないのである。

 その具体例としては、例えば自分の魂を奮い立たせてくれるような音楽を聴くとか、よしやるぞと気魄がでるような映画や文学作品を読むとか、絵を見るとかである。
 私なら、南ク継正先生の著作を、本棚の背表紙だけ見るだけでも、手にとってパラパラめくるだけでも、1日世俗で汚れた認識を整える効果はあると思ってやっている。

 あるいは、歩くときにただの散歩ではなく、威風堂々周囲を睥睨するかのように認識を整えて歩くのだ。譬えは悪いだろうが、ヒトラーはさすが見事な歩き方をしている。そういうものを参考にしたらいい。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☔| Comment(5) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
長年拝読しておりますが、今回の投稿は論点が明確かつ鋭利に研ぎ澄まされていて大いに感銘を受けました。
Posted by 右旋回ヨシ at 2016年04月14日 16:09
右旋回ヨシ様
コメントありがとうございました。
「今回の投稿は」となっていて、「今回の投稿も」でないご評価が残念でした(笑)
Posted by 右旋回ヨシ様へ(ブログ筆者です) at 2016年04月14日 20:35
ホントだ!この投稿すごいですね!
Posted by メイジールプチンファイバー at 2016年04月15日 07:39
メイジールプチンファイバー様
ご賛同いただき、ありがとうございます。
Posted by メイジールプチンファイバー様へ(ブログ筆者です) at 2016年04月15日 12:31
いつも拝読させていただいています。
今日の記事はいつもに増して、スカッとさせてくれますね。
ありがとうございました。
Posted by わん at 2016年04月15日 14:30
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