2016年04月21日

「歴史の底を流れる大海流」とは(2/2)


《2》
 「夏子の酒」のなかで、夏子と杜氏見習いの草壁が、日本一の酒蔵である福井の「美泉」を訪ねる。客間に通された二人が酒づくりの秘訣を乞う場面がある。問われて、美泉のベテランの一流杜氏は、若い草壁青年にこう言う。

 「秘訣なんてものはありませんが…。草壁さんは蔵ではどんな役で?」と上座に座る草壁青年に訊く。
 草壁青年が「まだ、ハタラキ(酒蔵での下働きのこと)です」と答えると、
 「わしは古いんでしょうかね。昔は母屋の座敷なんぞ蔵人はおろか杜氏だってめったに入れなかったです。ましてハタラキが蔵元をさしおいて上座に座るなんて…。それだけでお払い箱ですわ」と、客然としていた草壁を厳しく叱るのである。
 「これは格式というもんです。わしには蔵には格式が必要だと思っとります。酒蔵がただの企業になり、蔵人がサラリーマンになったら、酒造りはできません」   

 そこで若い杜氏見習いの草壁青年は、自分の態度を恥じて謝罪する。これは良い場面だった。そのあと、草壁とベテラン杜氏が二人きりになると、杜氏は「草壁さん、酒造りは蔵元と杜氏の二人三脚だ。蔵元を大事にしなさい。それは技術以上に大切なことだ」と諭す。

 草壁青年が「美泉はなによりも蔵元と杜氏の息が合っているわけですね」というと、杜氏は「教えられることばかりだ。格式なんぞという言葉も社長から教わった。蔵には格式が、杜氏にはプライドが必要だとおっしゃった。わしから出稼ぎ根性をぬぐいさってしまわれた」と答えるのである。

 この尾瀬あきら氏の創作した場面は、私にはこれが日本酒が至高のいわば芸術レベルへと到達した謎解きだと思われる。どぶろく造りをしていた日本原住民系の農耕民たちは、初めは奴隷的な労働を強いられたであろうが、なかにはそうした奴隷根性、出稼ぎ根性を反省していく者が現れるのである。

 それを促したのが、一つは観念的に対象化したところの神様からの規制であり、もうひとつは貴族の把持した「格式」や「プライド」であったはずである。つまり、先ほどから言うように、格式とは? のようなレベルの高い「問いかけ」をするようになったからこそ、名酒が生まれた。格式を観念的自己疎外とすることで発展ができたのである。

 これは和歌や茶についても同様である。また、再三言うように、白人どもにとっては「聖書」がそれであった。自分たちが創った規範が自分たちを規制してくるシステムを確固として築いたのが、彼らの発展の礎だった。白人たちが創った音楽や絵画、文藝なども当然、そうした自己疎外の軸があったればこそなのである。

 史上、イエスなる人物もパウロだのペテロだのも実在しない。ローマ帝国の為政者たちが、統治のためにでっち上げたものにすぎないが、それでも観念的に対象化した宗教を考え出したのは、画期的だった。

 私は貴族特権階級が嫌いで、本ブログでも貴族はバカで残酷だという話を書いてはきたが、それは彼らのマイナス面であって、プラス面を評価すれば、それは「格式」や「プライド」に彼らがこだわった面である。王者にふさわしいかどうかの問いかけ、である。この良い面との相互浸透を意図的に起こした(学んだ)ればこそ、日本は世界に冠たる独自の文化を構築できたのであり、酒もまたしかりなのであった。すなわち自己疎外の成果であった。

 例えばこれは、和歌がもともとは貴族の遊びであったものを、今日では庶民ですらが、彼ら貴族の文化を踏襲してきている事例を考えればわかるだろう。

 この“より素晴らしき”レベルへ、より高みへという、われら先祖の指向を見逃してはなるまい。この指向こそが先に述べた(引用した)「人類の歴史は、その歴史の底を流れる大海流は巨大なウネリを隠しもって進んでいるのである」との文言につながる。
 そこを問いかけ的に自覚することこそが(たかが酒づくりではあっても)「そこを論理的に見てとれる実力を有しているかどうかで、その諸君の人生の岐路となる」のである。

 再度引用した文言はわが流派「型」の本にある文章であったが、この文言にある「論理的に見てとれる実力」と言った場合の「論理」とは何かを復習しておきたい。
 われわれの目の前にあって、頭脳でまず反映しているのは、事実である。事物事象。

 論理とは、端的には対象の性質であるが、その事実の性質を解く人間の側の論理、その二重構造である。
 例えば、川が流れている、川面に桜の花びらが浮いて流されて行く。これは事実である。見えていること、実際にそこにあるもの、あること、である。で、その川の性質とは、水自身が流れていく性質と、ものを流す性質があると言える。他にも性質はあるが、ここでは省く。

 川という対象の性質、それを認識として捉える人間の性質の二重構造だというのである。
 タックス・ヘイブンで脱税をやらかしている大富豪がいるのは事実で、彼らがなんのためにやっているかの論理もあるが、それを見て取る側の人間には、「いや、あれは合法なんだ。外国で取引をしたらいちいちカネが銀行をあっちに行き、こっちに振込みしていたのでは手間だから創られたシステムで、良いことだ」と言う奴(金融側)がいる。これも一つの論理であって、間違いかどうかの問題ではない。しかし一方で酷税に苦しむ庶民は、「脱税」という論理を展開する。

 このように、その事実の性質を解く人間の側の論理が変化する。
 したがって、本来的には二重構造だとはいいながら、対象には性質しかなく、論理は人間がアタマのなかでスジを通すものなのである。論理といえるからには、対象の持っている性質を一般的に把握できる実力があってこそ、になる。

 川の例で言うなら、石狩川、多摩川、天龍川、鴨川、淀川、筑後川…というように、川をたくさん集めて見ても、一般的に「川」と捉えていないと、石狩川は蛇行し過ぎだ、多摩川は汚れがひどい、天龍川は早瀬が多い、などなどの特徴をそれぞれ見て、「変種」だなとか「湖のやや流れがあるものだな」とか、違いばっかりに目が行くことにもなりかねない。

 だからアタマの中でスジを通せる実力を身につけて、川とはかくかくしかじかだと言えれば、論理になる。だからより正確には、対象(川)には論理性はなく、アタマの中で捉えること、捉えたことが論理だと、こうなる。

 こんなことを人間は、ギリシャ哲学の昔から考えるようになってきて、何千年。それを主に主導してきたのが、ギリシャ、ローマ、ドイツ、イギリス…といった白人国家であり、何を隠そうわが瑞穂の国 秋津島だけだ、となる。
 
 もう一度、わが流派では『型』の本の文章を提示する。「そもそも人類の歴史なるものは、いかに堕落しきっているように思えても(見てとれても)、その歴史の底を流れる大海流は巨大なウネリを隠しもって進んでいるのである。そこを論理的に見てとれる実力を有しているかどうかで、その諸君の人生の岐路となる」
 本稿のタイトルにした「歴史の底を流れる大海流」とは、で言えば、これはより高みを目指すところの論理の獲得であろうかと思う。

 「論理的に見てとれる実力」とはかくのごときを言うのだろう。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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