2016年04月25日

認識を感情にするとは(1/2)


《1》
 幼稚園児が、「○○ちゃんが好き、結婚する」とよく言うが、これを本気で恋愛しているとする大人はいない。恋愛感情は思春期過ぎなければ、いわゆる本物ではないことは誰でも知っている。
 幼児でも、知識としては異性が結婚するとか、恋人になるのは知っていても、いささかも「感情」でわかっているのではないことも、誰でもわかっている。

 赤ちゃんが成長して友だちと関わることができるようになり、好悪が芽生えるわけだから、これは立派に感情が育ってきたのである。母親は赤ちゃんのときから、「ほらチューリップが咲いている、きれいね」とか「ワンワン、かわいいね」などと働きかけて、知識と感情を「直接に」(切り離すことなく)教える。

 だから徐々に、子供は認識が感情になるのだ。これを「人間は創り創られて人間になる」というのである。人間として身につけなければならない認識の基礎である。

 しかるに、教師たちは小学生が英語を習うとか、中学の勉強をする(飛び級もそうだが)ことに疑問を持たない。
 小学生には、算数でいえば「鶴亀算」や「流水算」で、現実にあるもの(子供にわかるもの)、鶴や亀や川で計算を覚えるのが正しい。それでもむずかしいが、まあいいとしよう。代数を学ぶのは中学からになっているが、どうせ代数をやるんだから、小学校でシチめんどくさい鶴亀算なんかやらなくていいじゃないか、とする見解がある。

 小学生にいきなり代数を教えることがなぜ間違いかといえば、認識が感情にならないからである。中学校で代数の論理を理解することは大事だが、式をただ当てはめて計算が合うだけの作業をしていれば、与えられた答えを覚えるだけの人間になっていく。これが秀才だ。
 ここがなかなか教育研究者にわかっていないことなのだ。

 認識は感情にならなければいけない。そうなっていない人間は、むやみに感情的になったり感情が薄くなったりする。知識だけはやたらに増やせる秀才になる。花を見ても心からきれいだなと思えず、小鳥のさえずりを聞いてもうるさいだけ、になる。

 ずいぶん昔(パソコンのない時代)、テレビ朝日が日曜日にやっている「新婚さんいらっしゃい!」という大衆番組を何度か見たことがあった。今でも放映しているらしく、大変な長寿番組だそうだ。
 そこに出て来るカップルで、新郎が東大や京大を出ているとか、医者なんかであると、例外なく見事に共通して感情が薄いのが見て取れ、唖然とした覚えがある。

 皆“秀才”であるが、人間の出来損ないで、女性を前にどうしていいかわからない、女性から誘っているのに手も出せない、キスの仕方も知らない、まして…という経験を新婦のほうがしゃべり、司会の桂文枝があきれる場面が幾度もあった。男女がどうするのか知識はあるようだが、実際にお手上げなのである。
 男だったら女を押し倒せよ、と思うが、そういう感情になれないまま。

 これが、先に言ったように、小学生に中学のことを教えてしまったがために、認識が感情にならずに大人になってしまった、あわれな現実であった。
 小学生に中学のことを教えるとは一例であって、深刻なのは小学校から受験勉強に没頭する弊害である。受験勉強では、認識に感情を入れない、入れない方がむしろ機械的に覚えられる、ひたすら言われたことを暗記するだけ。その脳の働きが量質転化する。

 『ゼンダ城の虜』とか『スカラムーシュ』を読んでも、どきどきワクワクしない人間になり果てる。
 
 以前、これも東大出の秀才であった経済評論家・植草一秀のことを取り上げたことがあって、彼は若い頃、失恋しても悲しいと思わなかったと書いていたのである。さもありなん。これが秀才君なのだ。男女の付き合いが感情にならない。だから失恋しても悲しくはならないで、ケロッとしている。

 こういう人間がサヨクになるのは必然であるが、経済のこともわかるはずがない。経済はいわば生き物で、現実そのものであり、かつ、人々の感情で動くのである。消費税ひとつとっても、東大出の“秀才”は数字しか頭にないから、税が8%から10%にあがるときの事実に関わっての人々の感情がわからない。円高になるのも、感情が関わっている。

 マルクスは資本論を書いたが、事実として(感情をともなって)資本がわかっていなかったのである。会社のひとつも経営してみれば事実として資本が反映したろうに、本に埋もれているだけだった。道徳レベルで資本家が悪いとしか言えなかった。
 認識を感情にしないまま、道徳論で社会を分かった気になった災厄が20世紀に荒れ狂ったのである。

 『共産党宣言』は、「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、――共産主義という妖怪が。」という有名な文言ではじまるが、まさに、道徳でものごとを見るだけの恐るべき「妖怪」が世界を戦乱に巻き込んだ。おかげで何千万人も人々が殺された。

 東京大学の経済学部がマルクス経済学に昔から席巻されつづけているのは、徒弟制度のせいもあるが、あそこはみんな受験秀才の集まりだからである。本で経済がわかるつもりになる頭になっているから、事実に基づかないマルクスの経済が受け入れられやすい。
 植草一秀も東大経済学部の出であるから、たっぷりマルクス主義の手垢にまみれ、あげくに「安保法制反対。九条守れと」たわごとを口走る。
 実に、本を読めば空手がわかり、闘えると思うような連中。

 ために東大経済学部の者は、実態の経済が理解できないとされ、財務省には入れないのである。入れたとしても始めから出世できない。国家の財務を担うのが、あ〜ら不思議、東大法学部卒になっちゃう。日本にとって不幸なことの一つだ。

 サヨク一般を、植草の例で挙げたけれど、受験秀才のなれの果ては、認識が感情にならない脳の質をつくりあげてしまったのだから、どうしても現実をわかる実力が乏しい。
 憲法研究者どもも、見事に認識が感情になっていないから、道徳でしかものが考えられない。「民主主義」もうっかりすると、国会前で「安倍嫌い!」「戦争反対」と騒ぎたてることと勘違いする。

 「憲法9条を守りたい」なんかもまさに道徳論でしかない。大東亜戦争を侵略という(それもアメリカに押し付けられた概念で)道徳的理解しかできていない。大東亜戦争がなかったら、支那やアジア諸国は植民地のままだったに違いないのだ。学問をはかない道徳で見てはならない。

 アメリカも学問(体系)ができない連中だから、テメエに利が得られる低度の道徳でしかものが考えられない。だからせいぜいプラグマティズムになるだけ。それを大東亜戦争の後に日本に押し付けたのだ。勝手に日本を侵略国だと言って、道徳的観点で非難した。戦争を道徳だけで判断してはいけないのに、あいつらは学問ができないから分からないのだ。

 以前、本ブログでアレキサンダーやナポレオンなどがなぜ英雄とされるのかの「構造論」を説いたことがあった。彼ら英雄も、道徳でみれば侵略者、大量殺人者でしかなくなる。彼らの伝記をワクワクして読むことができない。彼らを感情的道徳論で解釈するのではなく、人類の歴史を学として捉えるから「英雄」であるのに…。

 くどく言うが、認識が感情にならずに、いわば別々のものと思い込んでいるから、自分の都合のいいものだけを感情としてしまう。別言すれば感情が薄くなっている。感情が薄いから、自分の好悪だけの道徳で対象を捉える習慣が身につく。
 認識を学とすることが考えもつかない…となる。

 実際、そうやって育ったサヨクは、実に愚かなことに、支那や朝鮮と仲良く出来る、仲良くしなければならないと思うことができてしまうのだ。認識が感情にちゃんと育っている人間が、どうしてブタ小屋に住んでいる人間と仲良くなれる?
 支那人や朝鮮人は平気でウソをつき、人を騙し、裏切り、拉致し、衛生観念もお粗末である。

 日本でしだいに彼らの実態が知られるようになって、支那や韓国を嫌う感情が日本人に戻ってきたではないか。ところがサヨクだけは、それがわからないし、わかりたくない。「友好したい」とぬかす。
 日本人は暮らしのなかでも清潔整頓をする民度の高さがある。支那人や朝鮮人に「ちゃんと尊敬される人間になりたければ、清潔整頓ができるようになりなさい」と言うべきであるのに、サヨクはやれない。これは差別でもバカにしているのでもない。学問的なレベルの話である。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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