2016年04月27日

松村正直の誤解 〜人工知能で藝術はできるか(1/2)


《1》
 毎日新聞2016年4月18日付の俳句・短歌のページに、松村正直なる歌人が「短歌月評」を寄せている。題して「人間とは何か」とあるので、「大きく出たな」と、やや興味をそそられて読んでみた。しかし…何が「人間とは何か」だ? まったくわかっていなくて堂々原稿を書くものだ。

 「人間とは何か」とテーマを掲げたら、自分なりの答えを出さなければ文章とは言えない。これから歌壇でも人間とは何かが議論されるだろう、と、それだけ。
 それにウソばかり垂れ流すサヨク毎日新聞に、平然と寄稿できる神経がわからない。

 わざわざ取り上げるほどレベルではないが、人間とは何かの一例として今回は論じてみる。
 松村が言うのは、昨今、人工知能の「アップル碁」が囲碁の棋士を破ったことにひっかけて、この出来事は「人間とは何かを改めて考えさせられるものだ」と述べている。で、歌壇でも短歌と人間をめぐる議論が賑やかなんだそうだ。

 それで彼はいくつか短歌を例にして述べた後、「現在、人工知能に小説を書かせる試みが既に始まっていると言う。やがて人工知能が優れた短歌を詠む日も来るかもしれない。私たちはそれをどう受け止め、どう評価したら良いのか。短歌における人間とは何かが、その時、厳しく問われることになるのではないだろうか。」と結んでいる。

 申し訳ないが、嗤っちゃった。
 東大文学部独文科を卒業しておきながら、ずっとフリーターをやっていたという経歴の持ち主。やっぱり東大か…と納得できるものがある。像で考えられないで、言葉で考えているからだが。それに、東大で国民の税金を莫大に費やして勉強させてもらって、フリーターとは呆れる。ならば費用を全額返納すべきだ。
 人工知能がなぜ囲碁とかチェスで人間に勝てるようになったかは、むずかしい問題ではない。また、人工知能が文學作品や藝術を創ることができるようになるか…も、答えは簡単である。

 最近、本ブログで続けて説いてきているように、人間は認識が感情になる(ならねばならない)存在なのである。それが人間の人間たる所以である。言うまでもなく、機械(人工知能)は感情がない。囲碁やチェスは、人間がやれば感情に左右されるが、人工知能は感情がないのだから影響されない。人工知能は、感情抜きに記憶して、それをゲームで使うだけだから、人間より圧倒的に記憶容量が大きくできる分、「手」というものがたくさん持てる。

 人間は感情があるから、負けたらどうしようとか、今の手は失敗だったなとか、機械に負けたら恥ずかしいとかの感情が沸き起こるのは避けられない。人工知能はそんな感情はないから、ゲーム程度なら有利である。人工知能にとっては勝負は勝負の「いわば像」しか創れない。人間は勝負の像にとどまれないのだ。

 例えば、相撲でも、横綱であっても優勝がかかった一番とかなら、感情に左右されるから、普段の力がだせずに平幕力士に番狂わせが起きたりするであろう。
 横綱が立ち会う瞬間に、彼の脳細胞にいかなる像が描かれるか。負けて砂まみれになって恥ずかしい像とか、親方に怒られる像、新聞記者にしつこく尋ねられる嫌な像が浮かぶのであり、そうなると力が出せずに負けることにもなりかねない。人工知能はこうはならない。

 感情のない機械と、感情豊かな人間が囲碁の勝負をすれば、人間はその感情ゆえに普段の力もだせずに負けることが生じる。それだけのことである。
 一方で藝術は、人間だけが創造し鑑賞できるもので、感情そのものと言って良いほどの存在である。
 その感情は、人それぞれ、育ち方も違えば教養も違い、いわゆる機械的に判断できるものではない。

 桜の花を見ても、湧きおこる感情が絶対に人は一様にならないのである。人工知能には、桜と入力したら「きれい」とか「はかない」とかの単語が返って来るように操作はできるかもしれないが、もともと別のものを(記憶させて)引き出せるようにしかできまい。
 再三言うように、人間の認識は感情と「直接」に創られるのである。

 桜の例でいえば、万葉時代の人が桜の花をみての感興(像)と、平成の私たちの像が同じではない。万葉の時代のほうが、像の深みがあったことは大いに考えられる。厳しい寒さから解放される春の喜びは、現代ではさほどない。この深みも、人工知能はゲームなら関係ないが、藝術は捉えられない。

 くり返しになるが、赤ちゃんにお母さんが、「チューリップがきれいね」と言いながら、言葉(認識)と感情を不可分に教えるのである。チューリップを見たら、それがなんであるかがわかる(認識する)だけでなく、「嫌いだ」とか「美しいな」とか、さまざまな感情が切り離せずに湧いてくる、それが量質転化して認識と感情は直接の関係になる。それが人間である。原基形態である。

 コンピュータにはこの認識と感情を「直接」に覚えさせたり、変化させたり、使わせたりすることはできない。受験勉強も恐ろしいことに、認識が感情にならないで創ることができる脳になる。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
青雲さま書かれている通り、コンプーターはどこまで行っても計算機であって、認識からの感情移行はありません。毎日新聞はこのくらいが限界でしょうな。
Posted by ジョンソン&ジョンソン at 2016年04月28日 02:15
ジョンソン&ジョンソン様
コンピュータがどこまでいっても計算機、という時代は終わっているでしょう。いかにも人工知能をもった働きは可能になりました。
だからといって、人間の感情を機械に身につけさせるわけにはいきません。
Posted by ジョンソン&ジョンソン様へ(ブログ筆者です) at 2016年04月28日 07:45
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