2016年04月28日

松村正直の誤解 〜人工知能で藝術はできるか(2/2)


《2》
 認識とは端的には「像」である。言葉ではない。しかもその像は感情像になるのだ。松村正直や人工知能を崇める人間は、言葉さえコンピュータに記憶させれば、豊かな像の小説や短歌が創ることができると勘違いしているのだろう。こんな寄稿を許した毎日新聞の担当記者も底なしの間抜けである。
 松村に限らず、ほとんどの人は認識がわかっていない。認識は形成されてくるということがわからず、先天性とか教育の埒外に置いて疑いもしない。

 歌人松村正直は、認識はいかに形成されるかがわかっていないから、もしかしたら将来は和歌や小説も創ることができるようになるかも、と思い違いをする。これから、人工知能で小説や詩を書かせようとする奴が出て来るだろうが、まったくの無駄である。仮にできたとしても、「ハーレイクインロマン」よりもっとひどい小説にしかなるまい。

 東大を出た人間の多くは、受験勉強をやりすぎて、認識と感情が「直接」でなく育ち、あるいは薄く育ち、だからこそ暗記力に優れるのだから、哀れをとどめる。松村も東大独文科で学びながら、人間の認識とは何かを学んでこなかったらしい。

 毎日新聞は、昭和12年の南京戦で「百人斬り」の捏造記事を書いて、二人の無罪の陸軍将校を戦犯に仕立てられて処刑されたにも関わらず、今もって謝罪をしない。そういうゲスの極みの恥ずべき新聞に平気で寄稿できる松村に、まっとうな人間が如何なる感情を抱くかわかりはすまい。そんなことが人工知能にできるわけがない。

 くり返すが、例えば男が恋人に顔を近づけてキスしようとしているとき、どういう像がどんな感情とともに描かれるか。それは刻一刻変化する。決して「キスする」という像ではない。拒絶されたらどうしようというとき、自分がみじめにうなだれているとか呆然としているとか、あるいはベッドに押したおして歓喜に酔っているとかの様々無限の感情像が描かれていっているのである。小説家はその感情像が無限に変化するなかから、一番この場面にふさわしい像を取りあげて、それを言語化するのである。

 こんなことは人工知能には不可能である。
 人間の認識は脳細胞の機能なのであり、脳は体の一部であって、生理機能と認識とを司り統括している。人工知能には生理機能と認識とを同じ脳という実体があるわけではない。例えば悩んで胃が痛くなることがあり、胃潰瘍があるために認識が不活発になることもあるが、それが人工知能にはない。

 人間は感情が実体を創るのである。中学生の感情が中学生の実体を創り、サラリーマンの感情がサラリーマン体を創り、相撲取りの感情が力士という実体を創るのである。松尾芭蕉は、俳句を完成させたいとの感情でみちのくを歩き、五感器官を磨いて見事な実体を創って俳句を藝術の域にもっていった。

 正岡子規は逆に、実体が病気(結核)になり、寝ているばかりで五感器官が鈍り、結核の感情となって妹に辛くあたり、ボロの俳句しかできなくなった。子規の俳句を褒める人はどうかしている。あんなのはせいぜい新聞の見出しだ。

 立派な歌人になりたければ、例えばランニングや縄跳びをやって、体を創り、草むしりやジャリ道をあるいて五感器官を鍛えなければならないが、それは歌を詠むという感情が実体を創るためでなければならない。それが人間なのであるから、そこを解明しようともしないで、人工知能でも小説や詩が創れると思うのは笑止千万である。

 藝術は人間の認識を鑑賞に耐えるレベルで外化したものだ。ここでは短歌を例に説けば、その短歌を読み聴きすることで分かるのは、歌人の生まれ育った認識の生々発展の量質転化した認識が外化したものである。
 その短歌から歌人の認識に迫りたければ、一般教養を知らねばならない。その歌人の人間関係、好悪、運動のありよう、学歴、食い物などを踏まえていないと作品は十分に味わえない。

 友人関係も当然にその歌人の作品に現れる。先に五感器官の生育と言ったが、友人関係も五感器官で創られる。その見事な五感器官で外界を反映するのであり、それで創られた認識が作品に現れるわけだ。いったい人工知能が、五感器官を鍛えたり、一般教養を身につけたり、友人関係を創ったりできるのか? おいおい。

 それが藝術一般であるけれど、短歌や俳句の場合は「もの」や「こと」を一息で、あるいは二息で表現する形式なので、要は(桑原武夫が言ったように)第二藝術になる。
 松村正直はおそらく、現在の日本歌壇の考え方というか作風が、二条派から来ることを知るまい。二条派とは、勅撰和歌集でいうと、古今集、新古今集などの主流となってきた歌風で、別の言い方をすれば鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての、南朝側、大覚寺統側、後醍醐院側が主とした歌作の考え方である。

 それにアンチを唱えたのが、京極派であった。こちらは持明院統、北朝側であり、歌人としては永福門院、光厳院、花園院らである。彼らが遺した勅撰和歌集が「玉葉」と「風雅」であった。
 日本の和歌の金字塔はこちらの京極派の歌人たちの作品であるが、南北朝の戦乱の影響で廃れてしまった。
 さらに明治期に政府と皇室が南朝正潤説を採用して、北朝を葬ったために、東大や岩波書店を頂点とする国文学者どもによって「玉葉」「風雅」は、闇に葬られてしまった。

 京極派と二条派の歌の流派に関しては、本ブログの「風雅和歌集論」を検索してご覧いただきたい。
 永福門院や光厳院の認識が、どのような豊かな感情、リアルな感情で創られたか。一方で私利私欲に固まった卑しい南朝連中=二条派の歌人の認識がどれほどボロの感情で創られたか。
 京極派「風雅和歌集」と二条派につながる「新古今和歌集」を虚心坦懐に比べてみれば明らかである。

 「風雅和歌集」の歌人に学べば、人間の認識がいかなる感情で創られるべきかが読み取れる。それが理解できていれば、人工知能にも和歌や俳句が創ることが可能か?などとする愚問が出てきようがないのである。
 
 本稿冒頭に、毎日新聞の「毎日歌壇」のページに掲載された松村正直の「月評」を取り上げるとした。
 日本には摩訶不思議な「壇」というグループがある。歌壇、俳壇、文壇、画壇など。それに新聞社や大手出版社がスポンサーとしてくっつく。外国にはこんな仲良しクラブはあるまい。

 昔は文壇の著名作家らが、「文士劇」をやらかして、アマチュアのくせにカネまでとっていた。明治からあったが、昭和になって文藝春秋社が主催し、三島由紀夫や大岡昇平までが出演した。子供ながら知って、アホかと思ったものだった。
 和歌や俳句を作ろうとする人が、誰かに師事して学ぶことは否定しないけれど、「歌壇」だの「俳壇」だの、徒党を組む必要はない。

 新聞やテレビもこれら「なんとか壇」と同じで、記者クラブを作って群れたがる。これらの最大の特徴は、お仲間うちの空気を壊さないこと、これである。
 マスゴミは誰からも何も言われない(批判されない)報道を目指し、歌壇俳壇なども仲間内で批判されない程度の付き合いを目指している。

 そんなことで、マスゴミならマスゴミで、社会の病巣を命懸けて抉りだすことができようか。歌壇俳壇では、松村の言うような「人間とは何か」「人間は如何に生きるべきか」を抉りだすような作品を創作できようか。

 例えば、至高のレベルではないにしても、はすみとしこ氏の『そうだ難民しよう!』とか、『余命三年時事日記』とかを評論するマスゴミは皆無である。ベストセラーになっている本なのだから、堂々と、褒めるなり批判するなりすればいいだろうに、マスゴミはやれない。歌壇、俳壇も当たり障りない作品ばかり。「そうだ難民しよう!」のような刺激的和歌を創って投稿したら、絶対に掲載されまい。

 やつらは言うなれば「共同体」の秩序、空気を壊されないようにだけやっている。
 だから、誰からも何も言われないように、恥部は隠し、臭いものに蓋をして、平気でいられるのである。その証拠の一つとして『風雅和歌集』が歌壇に無視されている事を挙げたのである。
 人からどんなに後ろ指を指されようとも、「人間とはを問うとはこういうことだ」と、人類史の高みを踏まえて、言うべきことは言う人間でなくて、どうして「文學者」と言えようか。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おっしゃるように、画壇、文壇、などという仲良しクラブは、いじましいだけですね。
Posted by KKKB at 2016年04月28日 12:21
脳細胞の理解深化は像、すなわちイメージ化によってのみ行われます。マスゴミなどは像のありよう云々以前に、像を求めることすら知らないのです。
Posted by 野球中継かと思ったら柳生重兵衛 at 2016年04月28日 18:22
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。