2016年05月04日

「将とは兵をして喜んで死なしむるにあり」とは


 アメリカのTVドラマ『24 -TWENTY FOUR- シーズン1』をDVDで観た。CTU捜査官、ジャック・バウアーの活躍を描いたサスペンスシリーズ。CTUとはテロ対策ユニットで、このドラマでの架空の政府機関のことだ。
 黒人の大統領候補暗殺事件を軸に、1日=24時間に起こった事件をリアルタイムで描く。リアルタイムで物語が進行する都合上、複数のシーンで様々な事件が平行して起こり、それらが複雑に絡んでその場その場で物語が急展開していく。「次はどうなるか?」のサスペンスが上質でついつい見てしまう。緊迫感、迫力、ストーリー展開もすばらしく、アメリカのテレビドラマの質の高さを再認識させられる。

 この物語は、まさに盤根錯節が重なり合い動いているなか、その複雑さを視聴者に感じさせない工夫が見られる。エンターテイメントに徹している。日本の昨今のテレビドラマが、いかに幼稚であるかを思い知らされる。
 ただこういうエンタメでは、工夫がややもすると衒いになりかねないが、それは避けられていると思う。
 映画でもテレビでもシリーズものは、だいたい初回が良くて後になるほど質が落ちるものなので、『24』はずいぶんたくさんのシリーズが作られているようだが、シーズン1だけで私は十分だ。

 さて、ところで。
 このドラマを観て思ったことは、パフォーマンスの重要性である。『24』は社会問題を提起する作品ではなく、エンターテインメントに特化したものだけに、「見せる、ひきこむ、楽しませる、わくわくさせる、次も見たくなる」そういう仕掛けが見事なのである。
 われわれ日本人は、どうもまじめで(まじめすぎて)アタマの柔軟性に欠ける。大学の授業なんかも、ふざけろとは言わないが、学問の世界に「見せる、ひきこむ、わくわくさせる、次も見たくなる」が皆目ない。教授や講師らは、渋面を崩さず、学生が聞いていようが聞いていまいがおかまいなしで、「流れ作業」をやる奴ばかりだった。

 すべての学校で、冗談ばかり言い、脱線ばかりする教師がいるが、それを良しというのではない。勉強がそういう意味で楽しくてはいけないけれど、四角四面で良いとも言えまい。
 諺に「将とは兵をして喜んで死なしむるにあり」とある。それがパフォーマンスであるところの「見せる、ひきこむ、わくわくさせる、次も見たくなる」が必要なゆえんである。
 こんなことは教師を養成する大学の講義では教えまい。

 学的論文でも、ガチガチで、言っていることさえ正しければいい、難解な言葉を並べればいい、文章に余裕というか遊びがあってはいけない、また厳格、実直、佶屈聱牙(きっくつごうが)、堅苦しい…であれば良いとする傾向は顕著にある。衆愚を寄せ付けない、「シッシッ、あっちに行け」というのであろうが、それでは業界内でしか通用しないし、自分も像で考えなくて言葉だけで考える悪弊に陥る。これを才人才に倒れるともいう。

 だから、こういう『24』のようなエンタメを見て、「見せる、ひきこむ、わくわくさせる、次も見たくなる」あるいは「自分にもできそう」と思わせるパフォーマンスが必要な所以を学習したほうがいい。昔のテレビドラマや映画なら、主人公が正義で、悪者は単純にワルで、必ず征伐されるだけで喜ばれたが、もうそんな時代ではないことを『24』からも感じなければならない。
 主人公は単純なスーパーヒーローではない。多くの欠点がある男で、失敗もやらかす。見るものは自分に近い人間か…と親近感を抱く。

 空手でも、昔はひたすらその場突き、その場蹴りを号令に合わせて延々くり返すものだったが、それでは時代に合わなくなった。空手の品位、精神の高みを把持しつつ、どういうパフォーマンスを取り入れるかが大事である。
 最近では、練習にフォークダンスや盆踊りまで取り入れて、空手の上達につなげている。
 建築の世界でも、みんな実力はトントンのはずだが、パフォーマンスがうまい人、それに気づいた人が有名になっている。丹下健三とか黒川紀章にしても。

 なんのためにこんな話をするかというと、一つはいうなれば哲学を説く論文のありようであり、もう一つ弁証法や認識論の研究会と謳うブログで感じるもどかしさなのである。
 彼らの志は立派、論理展開もいい、としても、正しければ通じる、わからないほうが悪い、論理の高みはしょせんむずかしいのだ、という意識が前に出過ぎている。いささかのパフォーマンスがない。

 南ク継正先生の『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生のための“夢”講義』がどれほど、高尚な學の世界を説きながら、パフォーマンスを取り入れておられるかを、なぜもっと学ばないのであろうか。
 端的に言えば、社会性に合わないことをやってもダメである。サヨクどもが社会性に合わないことをやって、どんどん凋落していっているだろうに。

 天寿堂さんは、ご自身の健康腺療法の集大成を、一般向けにやさしく書いた本を出版しようとされている。私も執筆を勧めた縁で、期待しているのだが、天寿堂さんの本の原稿が、まだ出版社からOKが出ないのは、編集者がこのままでは読者は「見せる、ひきこむ、わくわくさせる、次も見たくなる」あるいは「自分にもできそう」と思わせるパフォーマンスが足りないと判断しているからだと私は思う。
 「書いてあることが正しければ売れるはず」で能事畢れりとしていては、先に進まないだろうに。

 普段の天寿堂のHPなどの文章は、ヘーゲルの哲学論文のようである。それも日本語訳の。ヘーゲルは『エンチュクロペディ』のように、自分で書いたものもあるが、講義を弟子がまとめたものもある。ベルリン大学で彼が哲学講義をしているときは、教室は常に満員の盛況だった。いくらドイツ人が堅物だとて、面白い講義でなければ学生は聴きにはこなかったはずだ。

 別にヘーゲルの講義が漫談だったとは言わないが、学生にも分かりやすかったにちがいないのである。

 余談ながら、本ブログでは、小説風にしたり、子供の日記風にしたり、ご隠居と与太郎の掛け合いにしたり、パフォーマンスを取り入れようとしている。毎度同じ気難しい文体では飽きられると思うからだ。
 この手法は、開高健の『ずばり東京』(光文社文庫)から学んだ。1960年代前半の東京五輪直前の首都をルポした作品で週刊朝日に連載された。開高は都内各所を隈無く巡り東京を描き上げた。各章ごとに様々な文体を駆使するなど、実験的手法も取り入れている。開高がどれほど表現に鏤骨(るこつ)の呻吟をしたか。作家じゃないから、論理だけが勝負だと言われるかもしれないが、それは未熟でしかない。

 この開高の『ずばり東京』を、谷沢永一氏がこう評した。
 「何事をもゆるがせにしない開高健は、この分野においても渾身の努力を傾け、その華麗な表現力は読者を喜ばせ、評判を呼びルポルタージュの水準を一気に高めた。」
 哲学的言辞さえ弄していたらよくて、分からない方が悪いという姿勢は、「何事をもゆるがせにしない」ありかたではない。

 本稿でも、『24』の話をまくらに振り、空手の話、建築の話、を取りまぜ、主題を説くのに堅苦しくならない工夫はしている。また、像が具体的に描けるように配慮している。それを自慢するわけではないけれど、これもパフォーマンスの一つである。

 ドラマ『24』は一例に過ぎないが、ドラマや映画なども、時代の流れを学ぶためには見ておかねばならない。こういう大ヒットしたドラマを見れば、人間関係の機微にも詳しくなるし、どういうことをやったら若い人から嫌われるとか、女性が嫌うのはこういうことだとか、どういうものの言い方をすると人はバカにされていると怒るのかとか、どういう風に相手に観念的に二重化するかが学べる。
 「見せる、ひきこむ、わくわくさせる、次も見たくなる」にはどうしたらいいかも学ぼうと思えば学べる。

 わが空手流派のある指導者は、大学空手部で教えるにあたって、練習場(道場)も確保できないから、昼休みの実質40分に大学の校庭で練習をやるしか出来なかった。昼休みだから大勢の学生が遠巻きに見物している。見ていると俺もやってみたい、となって、部員が百人以上にも膨れ上がった。だが決して楽しい練習をやったわけではない。しかしやりたくなるという練習をしたから、人数が増え、誰も止めずに全員が黒帯になった。

 これが先に言った「将とは兵をして喜んで死なしむるにあり」なのである。この諺を、戦争の「一将功なりて万骨枯る」の意味と同じように受け取ってはならない。指導者や論文執筆者の心構えを説いた金言なのである。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☔| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「将とは兵をして喜んで死なしむるにあり」、良い格言を教えていただきました。いつも勉強させていただいてます。
わたしも昔「24」にはまって、ずいぶん見ました。
Posted by 青シャツ at 2016年05月05日 07:19
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