2016年05月05日

弁証法とは論理であり、感情である(1/2)


《1》
 弁証法を知識として聞きかじった人は、まずもって永遠に「弁証法の頭脳」になることはできない。
 南ク継正先生のご著書はいわずもがな、不肖が書く弁証法、あるいは天寿堂稲村さんが書く弁証法を読んで、わかったつもりにはなれても(揶揄できたと思えても)、それは知識でしかない。
 空手を本だけで読んで、空手の技を使って闘えると思い込むようなものである。本で読んだものは空手の知識である。

 こんなことは小学生でもわかることなのに、大の大人が誤解する。
 三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』を読むと、弁証法は、対立物の相互浸透、量質転化、否定の否定、の3法則と書いてある。解説してあるから、相当難解ではあるが、わかることは出来たとしても、あくまで知識でわかったに過ぎず、「弁証法は運動だ」と実体験で捉えるには及ばない。

 人によっては「唯物史観」とか「生命史観」とか言葉はあれこれ使うけれど、中身が何もない。でも自分は知識があるからわかっているんだと自信をもってしまう。「唯物史観」とはおかしな造語(間違った言葉)であることがわかっていない。言葉で考えるから、これがまかりとおる(つもり)。「生命史観」については5月9日と10日に本ブログで取り上げることにする。

 本テーマとあまり離れてはいけないから簡単に言うと、「唯物論で捉えた歴史の論理(あるいは流れ)」が正しい言葉であって、ならば唯物論とは何か、対立する観念論とは何がどう違うかを提示したうえで、観念論で捉えた人類の歴史とはどう違う考えなのかを説きもしないで、勝手に言葉を創るものではない。「唯物史観」とは、日本のマルクス主義者がいい加減にでっち上げた絵空事である。
 つまるところ、共産主義革命をやりたい連中が、大衆をだまくらますために人類の歴史は「唯物史観」によって明らかなごとくに、資本主義が消滅して共産主義社会になる必然があるんだとするためにデッチあげた理屈である。

 「唯物論」の「歴史」はある。観念論に対立する概念として、唯物論がいつどのように誕生して、自然科学や社会科学などの考え方にどのように影響を与えてきたか、唯物論に着目した歴史は問うことはできる。だが、こんなことは大衆にはどうでもいいことだった。
 しかるに日本のサヨクの言う「唯物史観」はせいぜい、実体経済が人間の社会を動かしてきたとする捉え方を軸に歴史を見るということだろう。

 唯物論と観念論の相違は、三浦つとむさんが説いているとおり、世界の起源をどう捉えるかによる。また私たちのアタマの中の思い、感情、つまり認識は実体なのか、像なのかの論争が大昔からずっと続いてきて、未だに決着がつかないというか…、実は南郷学派が決着をつけているのだが、それが唯物論か観念論の違いなのである。
 観念論は認識は実体だとするから、才能はあるとか、運命は決まっているんだとか、死んでも観念は残って霊魂にもなると言う場合もある。

 唯物論は、認識は像であり、脳という実体の機能だと考えるのである。だから実体が死ねば機能も働かなくなるから、機能だけがこの世に残って幽霊になるなんて考えないのだ。唯物論は観念論との対比で「認識は反映であり、像だ」と説く。
 その唯物論で世界史の流れを学的に捉えて、「唯物論で捉えた歴史の論理」というのであって、「唯物史観」では訳がわからないのである。「唯物史観」なる妙な造語をこしらえた戦前のコミュニストがいかにアタマが悪かったかでしかない。

 こんな概念規定も不可能な用語を平然とつかえる知識のいい加減さと、自分に許せてしまえる感情が、私には耐え難い嫌悪感を催す。私はこんな用語がつかわれている文章を読むほど閑ではない。ただこの用語が並んでいるのを某ブログでチラッとみただけで、なにもかもが見てとれただけのことだ。

 話を戻そう。
 「生命」でもいいし、「地球」でもいいが、この言葉の像は、今の生命や地球ではなく、百億年の歴史の流れを抱え込んでいる図というか一般性の像が、弁証法の像になる。それを極端に一般化して言うと「運動」である。初心者に「相互浸透」「量質転化」「否定の否定」の3原則を説くにしても、それらはいずれも「運動」でくくることができる、そういう動的な像で創らせなければならない。やさしく言えば「浸透」も「転化」も運動である。

 だが、これを動的な像で捉えることが至難の業である。一つには誰もが教科書で学び、受験のためテストのための勉強をしてきているから、像が静止的であり、形而上学的であり、知識にしかなっておらず、知識にしかなっていかないからである。
 弁証法でアタマを創れば、すべての事実を弁証法で捉えられるようになるが、受験で創ってきたアタマのままでは絶対に不可能である。そのために武道空手を修行して、受験で創ったアタマを創りなおさないといけない。この道以外に、弁証法がわかるアタマにはならない。

 例えば、身体のある一点が腎臓のツボだという場合、そこに鍼を打ち、灸をすえると腎臓の病気が治るのは、いかにも治療効果はあがるにしても、それは知識である。これを捉えて、平易に言えば、ツボに熱や痛みの刺激で相互浸透し、量質転化して治った、と説明することはできない話ではないが、この低度では弁証法が云々と言うレベルではない。だからどうした、になる。

 この腎臓のツボの例で言うなら、生命の歴史がいかなる発展をしてきてツボになったか、あるいは皮膚はどうしてできたか、血液はどんな進化発展のすえに人間の血液になってきたか、神経の働きはどう誕生し、発展してきたか、認識がどのように関係するか、認識はどのようにサルで誕生したか、生活環境はいかに影響するか…などなど無限ともいえよう関わりの要素が、一個のツボを巡っての像、動いている像として捉えられていなければならないのである。

 それをいわば概括レベルで駆使できるアタマの働きが身に付くことが弁証法がものになった、という。
 そういうアタマの働きが身についていることである。弁証法が血肉化していることだ。これが先週からしきりに説いている「認識が感情になる」なのである。

 なぜ弁証法が必要になるかといえば、専門分野を一般性として学ぶためである。
 弁証法は、三浦さんは3法則とは別に「自然、社会、精神を貫く一般的な連関、運動、発展の法則」と書いているとおり、一般性の学問なのである。その一般性は「どんな運動をしているか」である。






posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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