2016年05月11日

生命誕生の謎(3/3)


《4》
 ある方が、生命の誕生についてこういうことを書いていた。
 生命現象は究極のウルトラCを編み出した。生命現象の本体の周りに膜といういわば城壁を築いて、冷えていく地球本体の影響を直接に受けない自分自身を造りあげた。これが〈生命の誕生〉である、と。
 
 この文章の前後があるから、この部分だけ取り出すのは気がとがめるけれど、この説明がある典型なので取り上げる。
 大衆向け解説ならば、「ウルトラC」でいいかもしれないが、生命体が膜をつくった、というと観念論になる。「編み出した」もなにか変な表現で、単細胞になるために何かが意志を働かせて(例えば神様の意志で?)細胞膜を作ったみたいになってしまうからだ。
 唯物論ではどう書くかはむずかしい。生命現象に膜ができるしかなかった、そうならざるを得なかった、と書くしかない。
 これはただの「言葉の綾」で済ますわけにいかない。

 西ノ島で噴火が起きてマグマが流れ出しているが、あのように、どろどろのマグマが地上に出れば、冷えて固まるしかないように、その現象がいわば膜に覆われて固定化するように、生命現象もある機能(冷えるかと思えば冷えない、温まるかと思えば冷えるのくり返し)が量質転化してきて、それが実体性レベルになりつつある段階で、その(冷えて行く)地球との関係性でいやおうなく、「それが地球」になるしかなくて、生命現象の地球が実体化するありかたが、生命体からみれば細胞膜の誕生だった。

 水には、「流れる」という機能と「ものを流す」という機能がある。このように、地球の生命体誕生のころの機能には、ただ他の惑星のように単純に冷えて行くのではなく、地球の4分の1の大きさのある月のせいで、あろうことか(!)冷えたり温まったりの、別の機能ができてしまった。あるものでありつつあるものでない、この矛盾が地球にだけ生命現象となるしかなかった。水に「流れる」と「ものを流す」の矛盾した性質があるように…。

 地球もその矛盾の固まりになるほかなかったのだ。
 この矛盾の解決を地球自身がみずから図ったかのように見えても、物質の性質が変化することでそうなるしかなかったのが、生命現象であり、さらに膜をつくることで生命現象を生かす矛盾を抱え込んだ地球になるほかなかったのではないか。

 「あるものがあるものであるとともに、あるものではない」との矛盾の例として、三浦つとむさんは『弁証法はどういう科学か』のなかでこういう例を出している。

 「『生』と『死』とを別々のこととして扱うのが、わたしたち生活の中での常識です。(中略)科学者はこのような常識にとどまらずに、もっと深く物ごとのありかたをさぐっていきます。『生』と『死』も、細胞のありかたでとらえます。からだの細胞は、特別のものを除いて、生まれた後にもたえず分裂をつづけ、古い細胞が死に新しい細胞が生まれてきます。(中略)『死』は生まれたときから『生』といっしょに存在しているといわなければなりません。」

 このような、「生」と「死」とが同時にある(生でありつつ死でもある)という矛盾は生物に限らず、物質の構造なのであり、これを認識として捉えて弁証法という。
 もっと広げていうと、古代ギリシャのゼノンが「飛んでいる矢は止まっている」という有名なテーゼを提起した。これも三浦さんは「飛ぶ矢は空間の一点に存在しかつ同時に存在しない」というのが正しい答えだと述べている。「あるとともにない」なのである。

 この矛盾が運動の本質なのである。ゆえに、生命の誕生においても、この矛盾の埒外にあったはずがない。勝手に決めつけるな、と言われそうだが、この弁証法の認識が感情になっていなければ、とうていわかるわけにはいかない。

 ヘーゲルは「媒介と同時に直接性を含んでいないものは、天にも、自然にも、精神にも、どこにも存在しない」と説いた。これに対してレーニンが、唯物論では「天」は棄てなければと言ったと『弁証法はどういう科学か』で紹介しているが、それは省略。

 「媒介」とは、常識的つかい方では、他のものを介して…であるが、弁証法的には、あれがなければこれもない、ということである。三浦さんは『弁証法はどういう科学か』でその例を解いているので、詳しくはそちらで学んでいただくとして、生命誕生にあたっても、地球のある現象のなかにおいて、「媒介と同時に直接性を含んでいる」事態が起きたと考えるほかはない。
 つまり何かがなければ、生命もなかった、のである。

 地球に新たに誕生した生命現象は、地球と直接の関係にありながらも、媒介たる何かを介して生命となっていったと言えよう。それが生命の誕生と同時に、媒介物として水が誕生しないわけにはいかなかったということになる。
 石ころに雷が当たったら生物になったわけはないが、よしんばそうだとしても、同時に地球とその生物を媒介する存在が、同時にできなければ、偶然誕生した生物も、地球との一体性を維持して生存することはできなかったのである。ところが現今の科学者たちは、それが解けないから、はじめから水があったとする説に固執することになる。

 もしも火星にも水がある(あった)というなら、それは火星のある現象が起きた際の媒介物として誕生しているしかないのだから、いったいその「ある現象」つまり生命現象があったのかということになる。火星に水だけが存在して生命体が存在しないのなら、そんな馬鹿なことは起こらないでしょ、なのである。
 
 今回の冒頭の引用文にある「生命現象の本体」という言い方も、正確さを欠く。そのいわば正体は何であるかが説かれていない。「ある現象」が突然、意志を働かせたかのように、冷えゆく地球の影響を受けない自分を創った、と読める。でも、その「生命現象」は地球自身の現象、地球が創った現象である。地球自身が地球でない(?)ものを創るとはいかなることなのかがこれは解かれなければならないはずだ。

 癌は悪性新生物とも言うが、人間自身が自分の実体に人間でないもの(死なない細胞)ができることである。地球の癌が生命体だというと顰蹙を買いそうだがこれは譬えだから勘弁してほしいが、おそらく論理的には似た構造なのではないだろうか。

 だから細胞膜とは、地球から相対的に独立しなければならなかったと直接に、地球自身の現象として維持されなければならなかった。ここに「あるものでありつつ、あるものでない」という壮大な矛盾が生じ、その矛盾を解決するために誕生した、かかる機能を持った実体なのである。

 それゆえ、現代のわたしたち生物は(今も、当時からずっと)かかる矛盾を孕みつつそれを解決するために、生物(地球)を食べて、かつ水や空気を地球との媒介として生かして、生存するのである。
 こうして地球との一般的同一性として生物が誕生してきて、その地球規模の機能は維持されてきたのだ。

 余談だが、だから地球外生物が地球に来たとしても(来れるわけないが)、生存はできないとわかる話なのである。また、もし人類が月や火星に飛んで行けたとしても、その天体自体には、やってきた生物との一般的同一性は持ちようがないから、いくら酸素や水を運んだとて、その天体との共存は不可能だとわからねばならない。

 最後にお断りしておくが、本稿は南郷学派が措定した「生命の歴史」のまったき紹介ではない。『看護のための「いのちの歴史」の物語』(本田克也ほか著、現代社)から、学んできた私の一応のまとめである。だから、本物はこちらの学問書であるから、詳しくは本を読んで学んでいただきたい。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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