2016年05月26日

軍人片岡覚太郎の至醇遥か(2/2)


《2》
 片岡の述懐は、個人が社会なり国家なりの従者になっているように見えて、実はそうではなく主体性ある個になっている。それがあとで書くが現代っ子ほど個性的であるように見えて、実際は社会の従者にならされている皮肉な現象がある。

 地中海に派遣された帝国海軍将兵が命懸けで同盟国の人たちのために戦ったばかりではなく、云わず語らずとも、片岡の至醇の極地というべき認識もヨーロッパの人々に伝わっているはずである。
 今も日本人がヨーロッパに旅行に行くと、最も信用されるのは、こうしたはるか先輩たちが積み上げてくれた日本人のスピリットが継承されているからだろう。韓国人や支那人とは隔絶している。

 私が片岡のこの記述で思ったことは、組織と個人のことであった(国家と個人でもいいが)。人は組織に尽くそうと一員になり、任務をこなし貢献し、逆に教えられ育てられするものである。ところが、往々にしてうまくいかないことが発生する。こじれて、組織をやめていくこともあろうかと思うし、辞めさせられることもあろう。
 
 そんなとき、ややもすれば人は組織を恨むものである。俺があんなに頑張ったのにとか、貢献したつもりなのにとか、受けた恩は十分返したぞとか。要は、俺を認めてくれないのは不当だとの思いで満たされることにもなる。恨みを抱いて、あとの人生を過ごす向きもあるやに…。

 しかし片岡はそんな認識は突き抜けている。これはすごいことだ。
 片岡の文章の前半を今一度読み返してほしい。彼は自分は認められようというさもしい気持ちで任務を遂行したのではない、と言い切っている。

 似たような記述は、藤原岩市の『F機関』(原書房)にもあったと思う。藤原は大東亜戦争のとき陸軍特務機関としてマレーやインド、インドネシアの独立に関わった男の中の男である。命を賭けで、インド等の植民地を独立させようと心胆を砕いた。私心を棄てている。

 また、多くの特攻隊志願兵の気持ちとも通じているだろう。
 こうした個人の認識は、国や社会にあまねく存在していた。別言すれば受け入れられる素地が社会にあった。
 現代の人間は、平和ボケし、個性大事で育ってきているから、片岡の思いはまったく理解できまい。

 例えば、まず教師が悪い、親が悪い、友達が悪かった、とすべて人のせいにする。俺を認めなかった教師や親が悪いのであって、俺は悪くない。という弁解で頭がいっぱいになっている。片岡のような人間は世の中から払底した。
 組織の理想実現のためなら、自分はどうなってもいい、そんな考えは今では嘲笑の的だろう。

 本ブログで何度か、テレビドラマ『陽はまた昇る』の警察学校の指導のありようをとりあげてきた。見事なドラマだった。
 警察学校の訓練生たちは、娑婆っ気が抜けず、人のためになろうと警官を志したものはおらず、公僕たるの自覚がない。まさに今時の若者。それを鬼教官がしごきあげるストーリーなのだ。

 訓練生たちは次々にクレームをつける。訓練が厳し過ぎる、ケイタイを取り上げるのはやりすぎだ、雨なのに外でランニングさせるな、わかるように説明しろ、女房の出産に立ちあわせろ、ともっともらしい要求や不満を叫ぶ。
 それを鬼教官が一つひとつ事実でわからせていく。

 鬼教官はこんなふうに言う。
 「警官はそもそも不公平な世界だ。楽して出世していく奴もいる一方、寝る間も惜しんで働き、へたをすれば命も落とす。こんな割の合わない仕事はない。それが嫌なら警官になるな」
 「お前たちのように、世の中をなめきった奴は生きている資格はない」
 「うまいものを食って、女と愛し合うために生きているような君たちに、銃を持たせ、手錠の掛け方を教え、人殺しを取っ捕まえるやり方を教えるのが、ここ警察学校だ」

 こう言われた訓練生たちは「むかつきます。せっかくやる気になってがんばっているのに、水をぶっかけるようなことばかりなぜ言うんですか」と。
 鬼教官はこう言い返す。
 「むかつくのはこっちだ。どいつもこいつも文句ばっかりイッチョ前。何もできないくせに、権利ばかり主張する。
 お前たちは、ガタイだけ、能書きだけ、緊張感のかけらもない、そのうえ謙虚さが微塵もない」
 
 訓練生たちはドラマでは成長していくのだが、これが日本の若者たちだ。すべて半煮え。貧寒な精神風土になり果てた。だから、9条は変えないでというバカが過半数もいる。
 いったい、地中海でヨーロッパの人たちの尊崇を集めた大和男子はどこに行った? 日教組と文科省の木っ端役人が推進してきた個性尊重の成れの果てがこれだ。

 最後に、『日本海軍地中海遠征記』の編者のC・Wニコル氏が本の解説のなかで語る、面白いエピソードを紹介しよう。
 それはニコル氏が片岡の遠征記をまとめようと思い立って、取材のためにマルタ島に赴いたときのことだった。
 マルタが1964年にイギリスから独立したときに、初代の副大統領になったダニエル・ミカレフという人物(医者でもあった)と会ったときに、ミカレフは日本の艦隊がマルタにやってきていたことを知らなかったそうだ。

 それでニコル氏が経緯と将兵等の数や滞在期間を説明すると、ミカレフはハタと膝を叩いて「なるほど、それだ!」と言った。ニコル氏がポカンとしていると、「マルタの歴史を通じて、この島に住んでいた東洋人などほとんどいなかったんだよ。いたとしたってごくごくわずかなものだった。それなのになぜ、マルタの赤ちゃんにこうも多くの蒙古斑があるのかと、長いことふしぎに思っていたんだ。あなたのおかげで謎が解けましたよ」とミカレフは笑顔で語った。

 「ふたりして声をあげて笑いだしてしまった。さすれば強壮な明治の海軍軍人は、海と同じく陸の上でも猛り立っていたというわけだ !」とニコル氏は記している。
 愉快な話であるが、これもうっかりすると、またアタマの歪んだ朝鮮人や支那人、そして反日日本人から、日本軍がマルタで「従軍慰安婦」やら「性奴隷」を強制していた、などと言われかねないが…。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
素晴らしい・・・。
Posted by セルジオ越後 at 2016年05月26日 20:04
セルジオ越後様
何についてでしょう?
マルタ島での帝国海軍将兵の、夜のアヴァンチュールが、ですか?(笑)
Posted by セルジオ越後様へ(ブログ筆者です) at 2016年05月26日 21:36
27日、オバマ氏の訪問に合わせて広島に戻ろうとしていた国会議員が大韓航空の失態により戻れなかったのはどうもわざとらマン的な臭いがします。
Posted by シルバーシートを占拠する巨人 at 2016年05月27日 19:50
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