2016年06月03日

変わりたくない自分の感情


 松下幸之助が「鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス」と詠んだそうだ。こういうのを偽善者という。パナソニックはあくどいことをやってまで会社を発展させてきたし、「松下政経塾」をつくってろくでもない元民主党の政治家を量産した。
 その二枚舌の松下幸之助を、媚中副島隆彦は「PHP」から本を出してもらったときに誉めちぎり、これ以上ないおべんちゃらを言った男だった。

 松下幸之助は、あくどい商売をやりながら、こういう善人ぶったお為ごかしを言っただけで、それを見抜けないほうがどうかしている。衒いもいいところじゃないか。「まねした電気」とバカにされたものだった。昔は上流から中流の家庭は、松下電機の家電は置かなかったものだ。恥だったのだ。松下が下流向けの家電を大量生産して、あまねく「家電3種の神器」が行き渡った功績はあるけれど。

 今の自分では嫌だ、これではダメだと思って努力しようとする人がいる。逆にそんな必要はない、自分は自分なりで良い、あるいは人は人なりで良く、人生なにも無理に努力しなくてもそれぞれを認めれば良いとする人がいる。
 後者の考え方を端的に表現したのが、冒頭の“駄句”であろうか。

 最近、一つのテーマで本ブログは書いてきているが、それは認識は感情で創られる、である。
 自己変革を望む人はいるだろうが、自己を変革したいなら、変えたくないという自分の感情を抑えなければ変えられない。
 認識は変えられると誰もが思っていようが、ところがどっこい、認識の変革を張り付いている感情がじゃまして変われない。

 「今日のランチはとんかつにしよう」と思っていたが、やっぱりカレーを食べよう、という程度なら認識は変えられるけれど、もっと根源的な性格とか思想とか、志とかになると、おいそれとは…になる。
 何度も書いてきたが、アル中とかギャンブル依存とかは、止めようと「思う」ことはできても、「変えたくない自分の感情」は、盤根が地中深く張っているように、脱却できないのである。

 端的には、自分は心底バカだという感情になり切らなければ、変われるわけがない。アル中にしてもギャンブル依存、薬物依存も自分は感情で心底「おれはバカなんだ」とは思っていないのだ。なかにはギャンブルをやめられない自分を「僕の病気だから」と屁理屈を言うやつがいる。「病気がある」と思っている愚か者だ。

 だから「今の自分では嫌だ、立派になりたい」と思っても、人はなかなかにして変わることができない。なにしろ人生、20年、30年とやってきて、それなりの自分だという感情があるのだから、今の自分が嫌だとはいいながらも、やはり自分がかわいい感情が勝つのである。バカだとは思いたくない。

 自分はバカだという感情からは出発できないものだ。量質転化してしまったからだ。今の自分を半ば肯定し、さらに良くなればいいのだと思いたいのである。あるいはちょっと酒が好きなだけ、ギャンブルはいつでも止められる、と言い訳する。
 女の人でいえば、着ている服はまあ満足しているが、化粧がどうも嫌だとか、イヤリングが似合わないわ、という程度の認識がこれである。だから決死の覚悟で自分の感情を変えようとは思わない。
 
 そもそも赤ん坊のときから、自分が何を反映し、何を問いかけて、あげくに現在の性格とか志というほどのものが「感情」と直接に出来上がっているかを見ようともしない。だから変わりたいなあと思いつつも、蛮勇をふるって変われないのだ。

 結局、変われないものだから、人は自分をごまかして幸之助みたいに「鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス」でいいではないかと開き直る。
 そしてそのダメな自分を肯定してくれる恋人を探し、受け入れ、あるいはそのレベルの本とか文章とかを読んでは満足する。
 人様のブログにちょっかい出して、悪意ある誹謗中傷を するのは、誰かにかまってほしいだけのさもしい人間だ。人の意見を嘲笑できれば、自分が肯定できる気分を味わえるのだろう。

 こういう人は大志とは何かがわかっていない。
 または目的とは何かもわかっていない。
 といえば、知っていますよそれくらいと反発されようが、それは辞書の意味でわかっているだけのことである。

 大志を持っていなければ、自分の目指した目的は決して達成できないという構造がある。いかほどのレベルの大志を持っているかで、基本というべきスケールや、出来上がりが違って来る(決まってくる)。

 「それもまたよし ホトトギス」とは、妥協である。
 ある妥協をすれば、必ずその妥協レベルでその人は創られてしまう。ある人が、ブログにはじめから悪意でコメントをしてくる人にまともに論争を受けてたっているから、「朱に交われば赤くなりますよ」と忠告したことがあったが、「先輩だから」と答えが返ってきたのには仰天した。
 人は妥協のレベルで落ちるのに例外はない。なぜそうなるか。

 たとえば最初はこれくらいいいじゃないか、と思う。次にはその「これくらい…」が重なる。
 私も人のことは言えないが、みなさん自身青ざめるレベルで思い起こされるのではないか? 別に誰もが高い志をもたなくたっていいじゃない、という人は青ざめることはないだろう。
 
 老人のボケを例にとってみよう。最初は動かないレベル。次は動けないレベル。最後は動こうともしないレベル。こうなって人生終わるのだ。最初の「動かないレベル」で維持することはできない。これが弁証法である。自分の怠惰、妥協が、自分自身と相互浸透し、量質転化してゆく。目的達成の過程である。多くの人が身を以て実感できるであろう。

 もう一つ例を挙げようか。性同一性障害とやらである。
 ここに女の子がいるとする。最初は男の子に憧れるレベル(動かないレベル)。なぜなら周囲(親や教師)に同性として唾棄すべき日常を送る人がいて、絶対にあんな女になりたくないと思っている。それが思春期と重なって、思いが強烈に膨らんで、女性になれなくなるレベルになる(動けないレベル)。
 その思い(女性になれなくてもいいと)を認めてくれる周囲が現れ、最後は「動こうともしないレベル」すなわち、女には戻ろうにも戻れないレベルに完成する。

 こうやって自分で自分を「病気」にするのである。
 こうなるのも、一つには、自分は立派な女性になるのだという志を持ち損ねるからだ。女性が立派な女性に、男性が立派な男性になるのは、自然成長性ではない。目的意識的に(レベルの差はあれど)自分を育てるからである。
 自分が女であれば、女になる目的をどう捉えるかがなければならない。そうでないから、女は40歳、50歳になると、ただのグータラおばさんになってしまう。自然成長性のままに、妥協してもそれもまた良し、とする生活するからである。

 これは先に指摘したように、すべては妥協、妥協、そしてまた妥協の産物である。妥協すれば、人間は必ず落ちる。
 なぜかなら、人間だからである。動物は生まれて本能のままに生きて、死んで行ける。人間はそうはいかない。歴史性を持たねば必ず堕落する。認識的実在だからである。

 村上春樹の『羊をめぐる冒険』では、要するに能力はある(?)が何もしたくない、なんでもない自分がいい、という考え方を批判したことがある。

 村上の小説がバカ売れするのは、ダメな自分、妥協したい自分を彼が肯定してくれるからだろう。
 たしかに誰もが自転車をこいでいるわけではない。それでも犬やネコなみに生きて行くことはできるだろう。それで良いという人に、言うべきことはなにもない。
  だが人生に挫折や苦難はつきもので、必ず苦しい時期はやってくる。艱難をダメ自分を肯定している人が果たして乗り越えられるだろうか。

 目的的人生をめざし、苦難に耐え抜くという、いわば根性を創っておくとは、苦難に耐える認識をして脳細胞を「苦難に耐える」プログラムに変えておくことなのだ。そうしておけば、仮に老人になって、認識力が落ちてきたとしても、今度は脳細胞のほうがシャッキっとしてくれるのである。
 志を抱いて目的意識的に生きることは楽ではない。これまでの甘えた自分を捨てて、地獄に飛び込むことなのである。しかし、そういう闘魂を創ってこなかった人は、飼われたヒツジで満足するしかない。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ブログ筆者様
いつも拝読させていただきありがとうございます。
今回のブログの内容は、とても納得させて読ませていただきました。特に老人のボケのくだり、『最初は動かないレベル。次は動けないレベル。最後は動こうともしないレベル。』
私は機能訓練を中心としたリハビリデイサービスで仕事をしている関係上、日々高齢者と接していますが、正にこの通りであると実感しています。
お一人々、色々な事情で今の状態になられたのは理解できますが、ほとんどの方はなるべくしてなったと言わざるを得ない方ばかりだということです。
ほとんどの方が動けないレベルでやってきて、何とかしてくれと頼ってきますが、その前にご自身で何か努力しましたか?と言いたくなります。口を開けば愚痴や不満だらけです。
特に怖いのは、若い頃からギャンブルやアルコールに依存してきた人は、身体がおかしくなった今でも、それが原因だと思っていません。思っていたとしても、反省してません。妥協、妥協で普通に酒浸りの毎日です。
私も仕事ですので、何かしら良くなるようにと精神面と肉体面で働きかけながらやってはいますが、もはや手遅れ状態が現実であると思います。
努力して良くなり、また社会のために何か役にたてるようになろうなどとは誰も思っていません。
こんな当事者意識だから介護報酬も下げられるのは当然かもしれません。
日々、こういった現実を見させられていますので自分はこんな老人にはならないよう今から準備していきたいと思っています。
以前、教えていただいた水かき療法や人工芝のマット裏での足踏みなどの実践を継続していきたいと思います。あと気温も上がってきましたので、足裏の鍛錬も並行してやっていきたいと思います。
今回のブログで、また新たに心に思った事でした。
ありがとうございました。錦見有恒
Posted by 錦見有恒 at 2016年06月04日 19:12
錦見有恒様
そういうお仕事は、ご苦労をなさっておられるでしょう。
日本社会の矛盾が集まって、泥沼の様相を呈している現場だと拝察します。
弱者を労る、社会保障を充実させる、その名目のために、わが国は沈没していきます。政治家、役人、マスゴミ、宗教などがこぞって、弱者救済を唱えます。だからますます、老人や障碍者が甘え際限がなくなっていくのです。

介護を受けたい、リハビリを手伝ってほしい、という老人は年齢制限を設け、治りたい意欲をテストするくらいのことはしなければならなくなるはずです。でも誰も嫌われたくないし、自分の老後を考えて、際限ない介護、援助を残そうとするでしょう。

そうやって国が滅ぶのです。
年齢制限という意味は、例えば80歳以上は介護、リハビリ援助は打ち切りということです。80過ぎて自力で生きていけなくなったら、それは死ぬしかない。リハビリにがんばっても治る意欲もないし、自努力もしなくなるでしょう。若い人や家族の生活や未来を奪ってはならないのです。

テストとは、治って社会に復帰してなんらかの仕事に就くなり、社会貢献をする気があるかどうか、です。ただボーッとテレビを見て生きながらえていたって意味はないから、やる気のある人だけを援助するしかなくなります。
ただ、なんとかしてくれ、だけなら税金を使う意味がありません。ますます若い世代の保険料負担を重くするだけです。許されることではありません。

そして、介護士や理学療法士などが見極めて、この老人は直そうという意欲がないとプロの目で判断したら、打ち切りにすべきです。打ち切られたくなければ、生活を変え、意欲を持って努力しろということで、これは残酷ではありません。

あなたのお仕事も、ただリハビリの必要な老人に手を貸すだけでなく、その本質は共同体にとっていかに役立つかなのです。共同体の発展に役に立たないどころか足をひっぱるだけの人間は、消えていただくべきなのです。
Posted by 錦見有恒様へ(ブログ筆者です) at 2016年06月05日 09:07
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