2016年06月06日

輝ける古墳造成時代(1/2)


《1》
 「古墳時代」とは妙な呼称である。
 一応、三世紀半ばから七世紀末頃までの約400年間を指す。旧石器時代、縄文時代、弥生時代、の後に古墳時代が来て、次に飛鳥時代、そして奈良時代へと連なる。この時代は国内にも支那の歴史文献にも倭国の記述がなく詳細を把握できないため、「空白の四世紀」と呼ばれている。
 
 支那から(無礼にも)倭国と呼ばれたヤマト王朝の勢力が拡大し、王権が強化統一されていった時代である。この時代の末期に「日本国」を名乗ったもののようである。
 私の子供のころ教わったときは、大和時代と呼ばれたが、最近では一般的でなくなってきているらしい。われら日本史の最初の英雄、仁徳天皇(第16代天皇 4世紀後半)はこの時代である。王朝が成立しているのに、王朝を時代名にしないって何? サヨクの差し金か?

 だいたいこのころに、ヤマト王朝が北海道東北を除いて全国統一政権が樹立したと考えられている。
 古墳がしきりに造られた時代も、その数や規模はいわゆる正規分布を描き、中期ごろに多くなって巨大化したが、後期には数も減って小さくなっている。これは何を物語るのか。

 歴史学会では、古墳はずばり天皇・皇族や地方豪族の墓だとされる。天皇や地方豪族が、人民を搾取し強権をふるって奴隷として酷使して、自らの権勢を後世に残すために大きな墓を建てたのだと、学校でも教わった。これは一つにはエジプトのピラミッド建設の解釈を模倣しているやに想像する。
 ピラミッドの場合は、奴隷を使役して王が墓を造るため、石材を積み上げさせたのだと解かれてきたが、それがウソで、実は山を崩して造ったものだと解明されている。

 古墳は、どこを見ても平らな土地に土を盛って造ってある。人工的な盛り土だ。もしも天皇や豪族の墓だとするなら、いったいその膨大な量の土砂はどこからどうやって運んできたのか。
 墓にするなら、自然の小高い丘にでも埋葬すれば十分なのに、なぜわざわざ平地に造らせたのか、はなはだ疑問である。

 古墳の周囲は平地だから、現在は住宅街か田んぼが広がっている。造られた当時も、田んぼか畑だったはずである。
 ここから、日本歴史学会の定説にぼちぼち異議が唱えられている。
 稲作は縄文前期には日本にあった。弥生時代に〈弥生人〉が渡来して持ち込んだのではない。ずっと小規模の水田で、河川や湖のそばにあっただけである。菜畑遺跡(佐賀県唐津市)を見れば明らかだ。

 それが古墳が造られる時代になると、かなり大規模化した水田が登場する。そして当然、稲の収穫量も飛躍的に増えている。
 これは大規模な灌漑工事が行なわれたことを指している。
 本来、自然の土地は起伏があって当たり前である。河口付近は土砂の堆積で平地が多いが、太古から手つかずの自然ならば、大なり小なり土地は真っ平らではない。

 そこを開墾して平らにならし、水田にする工事をすれば、大量の土砂が出る。灌漑だから、水路も確保しなければならず、また溜め池も掘らねばならない。どうしても掘った土砂を捨てなければならない。
 これからリニア中央新幹線の大工事が始まるようだが、アルプス山脈にトンネルを掘るから、すさまじい量の土砂が出て、その処理をどうするかが大問題になっている。
 と、同じように、往時も土砂の処理は考えねばならなかった。
 それで土砂を集めて、盛り土にし、古墳にしたのである。

 この説を聞いたときには感嘆した。そうだよな、と。
 古墳は各地にあるが、とりわけ近畿地方に多い。それはつまりヤマト朝廷が近畿で勃興し、強大な権力となったからである。そして大阪平野や奈良盆地などを灌漑して、余った土砂を小山にした。
 それによって、民は米がたらふく食べられるようになり、人口も増え、国家が隆盛していったのである。
 
 したがってサヨク史家が言うように、天皇や豪族が人民を奴隷としてこきつかって、見栄や私欲で墓を造らせたわけがない。
 みんなが食べられるようになり、食糧をめぐっての争いも減って、平和になって、どれほど人民が幸せになったか。
 仁徳天皇陵も灌漑で盛り土したところに、家来や人民が天皇は偉大な方だったとの感謝を込め、また死後も魂としてみんなを見守ってほしいと願って、その盛り土を利用して陵墓にした、というわけだった。結果として陵墓になったのだ。

 おそらく仁徳さんの有名な逸話、「民の竃は賑わいにけり」は、こうした土木工事に敏腕を振るった天皇を偲んでの「神話」になったのではないだろうか。
 サヨク史家どもはいつも階級闘争史観を展開し、王権は絶対悪で、善良な人民を収奪し虐げたことにするけれども、支那や朝鮮ではあるまいし、「やらずぶったくり」の極端な苛斂誅求は行なわれなかった。

 もし、天皇や豪族が、人民の膏血をしぼりに搾る圧政をしていたなら、飛鳥、奈良、平安の時代の仏像が、どれもみんな穏やかな、慈愛に満ちた表情になるだろうか。これは直接の証拠だと言うつもりはないが、いにしえの人々の認識一般がそれら仏像の表情に、滲み出るはずではないか。

 要するに「空白の四世紀」とは、全国的に開墾、灌漑が盛んに行なわれ、米の収量が飛躍的に伸びた時期である。やはり「大和時代」の呼称のほうが良いだろう。
 七世紀末ごろに古墳の建設が行なわれなくなるのは、そうした古式の灌漑工事をやらずに済むようになったからだ。
 多くの土地が開墾され、土地が平らにされ、水路も発達していたから、新たに荒れ地を開墾しても、土砂は水路を利用して船でどこか(海?)に運んだり、大規模な堤防を造るのに利用されるようになったと言われている。

 実際、明らかに古い盛り土で古墳なのに、豪族の埋葬品もなく、墓とは言えないものが多いことが、古墳建設の目的が墓ではなかったことを示している。

 前方後円墳とか、形がいくつかパターンがあるが、それは盛り土が雨などで崩れないために固めたからだという。盛り土が崩れないよう、出来上がるまでは板で囲いをし、さらに周囲に溝を掘って、崩落に備えたので、仁徳陵のような巨大古墳には堀がある。
 盗掘を防ぐため、といいうより、土砂の固定のほうが大事だった。



posted by 心に青雲 at 06:00| 東京 ☁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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