2016年07月15日

リハビリの正否はどう分かれるか(2/3)


《2》
 リハビリに関わる錦見有恒さんが、患者にやる気がないことを嘆いておられた。そのお気持ちはよくわかる。ご尤もだ。ただ、患者を非難するのは正しいだろうけれど、あえて機能回復訓練に従事される方にもいくつか提言しておきたい。
 例えば、療法士のほうも患者も、夏でも厚着、長袖ではやっていないのではないか? 汗だくでやればそれだけ新陳代謝が活発になり、好結果につながるが…。

 往年の名投手、金田正一は決して冷房の効いた部屋には入らなかった。現在のホークスの監督、工藤公康も現役時代から決して半袖は着ていない。真夏でも。
 暑いからと半袖や短パンを着て、カラダを冷やせば患部の治りは遅くなる。汗をかければかけるほど望ましい。

 よって、リハビリ施設では夏でも冷房はいれるべきではない。窓を開けて空気を入れ替えていれば十分だ。患者は暑いと文句を言うだろうが、バカ言うんじゃない、汗をかくのはリハビリのためである。
 熱中症が心配だというなら、毎朝乾布摩擦をし、足裏を人工芝裏側で刺激し、交感神経を鍛えれば、どうってことはない。
 
 こういう研究をリハビリに関わる専門職の方は実践してほしいものだ。

 ここからは、以前書いた「リハビリの正否をわけるもの」の再録である。内容は大幅に書き替えてある。

    ■     ■

 巨人の長嶋元監督は、依然として回復がかんばしくない。片腕が使えないまま。
 わが流派には脳梗塞になりながら見事に復活をとげたK氏がいる。
 長嶋がダメで、K氏が見事に成功したのはなぜだろう。私は興味があったので、K氏がどんなリハビリをやったか尋ねてみた。
 ひとつは実体の面で、たぶん長嶋はK氏に比べて、病気になってもグルメを続けているのだろう。玄米、みそ汁、漬け物、目刺し、なんていう素朴な食事はしてないだろう。もし長嶋が相変わらずグルメをやっていたら、やはり治りは悪いにちがいない。そもそも脳梗塞になるのは、食事が悪いからだ。

 長嶋は有名人でお金持ちだから、周囲が甘やかしてくれる。理学療法士だって、天下の長嶋さんをしごくわけにはいかない、と考えてしまうだろう。決して無理はさせないことになる。
 しかし真実は「リハビリの痛みの数だけ治っていく」のである。そういう痛みに長嶋みたいなカネ持ちが果たして耐えられるか…。

 なんといっても肝心なのは、認識のありようではあるまいか。K氏は空手道場を主宰されていて、弟子を育てたい、弟子にみっともないところを見せられない、といった志があったはずである。ところが長嶋にはそんなものはない。もう現役を退き、監督業の戻ることもあるまい。志の支えになるものが消えている。

 その志が、あるいは情熱が、K氏を頑張らせたし、長嶋には志がないから適当なリハビリになるのではないか。長嶋は南郷先生が『武道の理論』で「情熱打法」と言われたことがあって、現役のころは、技を必死に磨くよりも、燃える気迫みたいなものだけで野球やっていた。だからそういうのは、若いときはそこそこ良くても、年とると消えていく。

 つまり情熱すらが、技化しておかなければいけないのに、長嶋は技化しなかったってことになるのだろう。
 ふつうは長嶋のように70歳80歳にもなれば枯れてしまうだけ。情熱は若いうちだけと、つぶやいて死んでいく。そういう違いではあるまいか。

 ふつう、サラリーマンは新しい外界というものを拒絶することで、会社人間になる。そうでなければ会社でやっていけない。しかし定年後にどうやって新しい外界に入っていけるのか。
 サラリーマンは、会社のバッジをはずしたとたんにダメになる。
 だから、サラリーマンは会社にいる間に、個として生きる実力をつけなければならない。そのために空手をやり、弟子を育て…が正しい。

 一流会社あるいは一流官庁に勤務する人間ほど、会社人間に、組織人間にならなければ、やっていけないのが現実である。三流会社は適当でも済む。その結果、定年になって会社から捨てられ、呆然なすすべを知らず、になる。そうなってからでは、もう新しい外界に適応することも、挑戦していくことも不可能なのである。
 あんなに会社に忠誠を誓い、粉骨砕身仕事に励んだのに、その結果が「ポイ」なのだ。

 勤め人も役人も「ボクがいなければ会社が困るから」とか「ボクがやらないと、仕事が止まってしまう」とか、そういう思いでいるいる。よしんば事実だとしても、それで体を壊し、定年後の無為な生活を迎えることで、いいのか。
 だから、サラリーマンは会社にいる間に、個として生きる実力をつけなければならないのだ。 

 介護の現場では、こういう「個としての生きる実力」をつけてこなかった老人たちが、いやになるほどいるだろう。彼ら怠け者老人たちは、老いて「新しい外界」に入っていく能力も気力ももはや残っていないのだ。その彼らも、かつては立派な会社人間、企業戦士として、残業や休日出勤にプライドをかけ、情熱をそそいできたものだったのである。

 昨日までの会社人間は、定年を境に「粗大ゴミ」として量質転化する。それでいいんだ、定年で燃えつきる、それが俺の人生だ、と言い切れる人はいい。だが、定年後も人生は続く。その人生を若者が保険料を払って支えるのは、若い人の人生を奪って介護させるのか。
 だから言う。個としての生きる実力をつけようじゃないか、と。

 K氏は空手を通して「個として生きる実力」を教えられていた方であったのだ。だから立ち直れたのである。その「個としての生きる実力」とは、彼の場合は弟子を育てることもそうだが、苦しい稽古に耐え、弟子の指導で親身に悩みして精進したからこそ、身についたのである。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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