2016年07月25日

「巨星」になりそこねた滝村隆一氏(1/4)


《1》
 滝村隆一氏が亡くなられたそうだ。ご冥福をお祈りする。72歳での逝去は若過ぎるが…。
 国家論の学者・滝村隆一氏は、1967年に雑誌「試行」に『二重権力論』を書いてデビューした。その後、『革命とコミューン』『マルクス主義国家論』などを上梓して、華やかな学究人生をスタートさせた。

 二重権力、広義の国家と狭義の国家などの論考は、実に衝撃的だった。
 だが、1970年代になって、左翼過激派の活動が下火になり、さらにソ連や東欧の体制崩壊にともなって、マルクス主義が萎凋していくにつれ、マルクス主義に関連した書物や論文は顧みられなくなった。

 しかも滝村氏は国家論が専門であって、それより概念レベルで下の政治学専攻ではなかった。いわば国家論のなかの一要素が政治であり経済であり生活である。国家学のなかに政治論、経済論があるのだ。ところが大学には政治学科はあっても(政治研究者はいても)、国家論の専門家も学科もない。政治研究者が国家を論じるのは本来は奇観である。

 滝村氏は、本が売れなくなり、大学に奉職するのも難しくなった。
 もともと滝村氏の本は難しい。政治なら誰もが扱うが、国家となると知識のかけらもない。まして滝村氏は吉本隆明氏主宰の「試行」の常連論客なのである。三浦つとむさんの弟子でもあったから、社会科学分野の業界の研究者たちは、なんといっても共産党を除名された三浦氏の関係者に関わりたくなかった。

 どこの大学も、吉本氏にも国家論にも恐れをなした。論争したって敵わないことはわかっている。大学の徒弟制度の枠におさまらない、とんでもない秀才に大学教授になられては困るのだ。
 滝村氏は、多くの政治研究者のごとき「評論」をしたり、外国の研究者の本を取り次いだりの人物ではなく、本物の学者と呼ぶにふさわしい人間として出立していた。志を曲げるわけにはいかなかっただろう。
 しかも彼は法政大学の経済学部卒なのである。

 経済学部を出た者がなんで、国家や政治を語る? が、大方の大学に巣食う研究者やジャーナリズムの思いだったろう。それになにより、東大や京大の出でなければ、一流とされる大学に就職できるわけがない。よほどの業績が認められなければ、あり得ないのが日本なのである。まして、彼こそまともな学究だと恐れをなす既存の徒弟制度の利権にしがみつく連中にとって斥力が働くのは当然であった。

 なんという情けない象牙の塔のクズどもかと慨嘆するほかないが、文句を言っても誰も助けてくれない。
 滝村氏は国家論では冴えた論考を見せはしたが、法政大経済学部では、大学のランクに問題があるばかりではなく、一般教養があやうい。国立大ならば、概ねすべての学科を学習してくるが、彼は社会科学だけなのである。

 専門の国家論なら突出した学の住人であっても、自然科学や精神科学、藝術などの分厚い素養がないために、どうしてもその学問が偏りがちになる。
 戦前までは、旧制高校で見事な一般教養を身につけるのに、私学の受験では「全教科」の履修は不要で、さらに法政大の経済だけだと、高校時代の一般教養もおざなりになってしまう。

 加えて、滝村氏は脂の乗り切った時期に病気をかかえ、目も不自由になって(勉強のし過ぎか?)生活が大変な時期が来たらしかった。
 デビュー当時は弁証法学徒だった滝村氏も、しだいに(?)弁証法を棄て、弁証法をバカにしていった。私はそれを聞いて、滝村の本を読む意欲を失った。

 亡くなる前に『国家論大綱』を完成されたのはせめてもの慰みにはなるが、この3巻本はすさまじく大部であって、以前から彼の著書は分厚かった。これでは読まれない。私も読んでいない。
 大冊の本を上梓すれば「どうだすごいだろう」と自慢はできようが、値も張るし重いし、読者泣かせである。彼の失敗の一つであった。
 そのあたりの本の制作の機微を無視するあたりも、彼が弁証法を棄てた証左であった。

 滝村氏は若いときは南ク継正先生の下で空手を学んでいたから、アタマが冴えたが、病気になったからと止めてしまった。病気になったればこそ空手をやらなければならないのに、これは自らの学の道を閉ざすような仕儀であった。

 これは勝手な憶測だけれど、滝村氏は南ク継正先生にたぶん嫉妬したのだろうと思われる。その根拠となる事実はあるが、ここでは書かない。滝村氏はここまで書いてきたように、本は売れなくなっていた。就職もままならない。なのに南ク継正先生のほうは着実に本が出て、学的成果をあげていき、組織も充実し、武道も極めていった。原稿執筆依頼も、いくつもある。

 なのに、滝村氏にしてみれば自分より学は未熟、文章も滝村氏が指導したほどで、空手でこそ負けるが、ほかでは俺が…という思いを抱いても不思議ではなかろう。それがなんと追い抜かれる事態にまで至ってきた。だから、空手を離れ、交遊関係を終わりにしていったのではないか。

 この嫉妬ゆえに、彼は唯物論や弁証法や、生活を科学することに背を向けるようになったと思う。唯物論を超え、弁証法抜きで国家学を築いてみせる、となったのだろう。師と決めた人を信じてこそ、成長があり得るのに、俺だって独力でできると思い込んで、師に背を向けがちだが、それで成功した人はいない。そのくせ、俺は嫉妬じゃないと思いこみたい…。俺の学のほうが上だと思うようになる。

 滝村氏も同様だと思うが、受験勉強をずっと熱心にしてきた人ほど脳細胞が運動形態をカットした統括を全身に及ぼし、認識にも及ぶのである。滝村氏が学者になってからも、すさまじい勉強の徒であったことは有名だが、やりすぎた。脳細胞が運動形態をカットした指示を内臓にも送ることになり、肝臓なら肝臓も運動しないカラダを創るよう血液を創り、全身に巡らせ、個々の細胞を創っている。

 肝臓は化学工場と言われるが、それは多くの医師が信じるにようにただ化学物質を生成しているだけではない。カラダがどのような生活過程をいわば望んでいるかを脳細胞の指令を受けて、それに見合った栄養素を創り、全身に巡らせている。
 椅子に座って勉強ばかりすれば、当然それに見合った、人間体としては極めて異常な生活過程に見合った統括を脳も肝臓も血液も為すようになる。

 おそらく滝村氏の場合は、空手を止めて運動をカットした脳の統括をやり続け、ためにたしかに読書力はすさまじく身についたかもしれないが、カラダは壊れていくしかなかったのだろう。
 見事な頭脳活動ができるようになるには、運動に見合った血液を内臓が創りだせるかどうかにかかっている。
 滝村氏の直接の死因は、肺線維症だそうだ。一般的すぎる言い方ではあるが、生活過程にかなり問題があったのだろう。晩年は友人知人との関係も断って、家にこもって読書と執筆に専念したらしい。

 何度も本ブログで書いてきたが、平安時代の貴族が書いた和歌の多くがつまらないものであり、病臥に付した正岡子規の俳句がくだらないものになる。
 滝村氏が弁証法を棄てていなかったら、もっとカラダの統括も探求しただろうし、その実感から国家の統括の構造も考えられたであろうに、残念なことであった。滝村さんの死を惜しむ人たちは、果たしてそのことを指摘しているのだろうか。

 滝村氏は国家論の本だけでは生活が苦しくなり、幸いにして、東京にある某私立大学に職を得たそうだが…。詳しくは知らないが、彼のもとで一級の学者は育てられたのだろうか。三流の、ほとんど名前を知られない大学で、あえて弟子を育ててこそ彼の国家学そのものも飛躍が遂げられたであろうに、おそらく彼は大学の職を単なる就職としてしか捉えなかっただろう。
 
 アホな学生を相手にしたくなかったはずだ。それより国家学の研鑽に邁進すればいいと考えたのではないか。マルクスが大英博物館に閉じこもって本にむしゃぶりついていたように、彼も本に埋もれていったように思う。
 風呂に入りながらでも、本を読んでいたそうだ。これは滝村氏の弟子にあたる人のさらに友人から洩れ聴こえてきた話である。そういうことをやれば…知識は増えようが、頭脳の働きはあやしくなる。

 南ク継正先生は、ご自身の著書にもお書きになっているが、短大にすら合格できなかった女子を、たった半年でどんな東大教授よりアタマを良くして一流学者に育てたとおっしゃっている。
 それもあれこれ手取り足取りして指導したわけでもなく。

 そうやって育てた弟子が、ひたひたと自分を追い越そうと迫ってくるから、負けじと頑張って学の高みに到達し得たのであった。滝村氏にはそういうことがあったのだろうか?
 バカな奴に教えてこそ、うまい奴を上達させることができるようになる。東大教授は教える相手が秀才ばかりだから、見事に研究はできても(?)、どだい「学問」ができない。実際そうでしょ。

 バカな奴を教えれば、その指導法のノウハウがうまい奴の行き詰まりを克服する方法がわかるのである。私も空手の道場で、箸にも棒にもかからないような運動神経の劣る弟子に、心中泣きながら教えたものだった。1回言えばできてしまう者は教えて気分がいい。いかにも自分には指導力があると自負できる。けれど、何十回教えてもできるようにならない弟子を、どうやったらいいか考えて上達させることが、指導者には財産になる。





posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
何時も勉強させて頂き有り難うございます。

今回の滝村氏についての記事も大いに期待しております。

さてここで滝村氏の学歴について私は法政大学社会学部の記憶していたので、ウィキペティアにて確認してみました。

滝村隆一
滝村 隆一[1](たきむら りゅういち、1944年〈昭和19年〉 - )は在野にして独学の政治学徒。

年譜[編集]
1944年岡山県倉敷市生まれ。埼玉県立浦和高等学校、1970年法政大学社会学部応用経済学科卒業。

とありました。

法政大学の現在の学部学科を調べたところ、応用経済学科は今はありません。

なくすにあたっての経緯は全く知りません。

以上、参考意見です。
Posted by 清野 眞一 at 2016年07月25日 10:31
清野眞一 様
コメントありがとう存じます。
ご指摘ありがとうございます。
Posted by 清野眞一 様へ(ブログ筆者です) at 2016年07月25日 18:08
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