2016年07月26日

「巨星」になりそこねた滝村隆一氏(2/4)


《2》
 自分で組織(小さいながらも“国家”)を創ってやれば「国家論」もできてくるはずなのである。例えば会社は一つの国家と擬すことはできよう。会社は商売するだけではない。権力があり、労組があり、他共同体(他企業)との対峙があり、国民(社員)がいる。社長になってそれを統括することでこそ、国家と政治と経済との関係がわかってくるだろう。

 国家になぞらえた組織を創って動かしもしないで国家が解けるか? 本だけ読んで国家がわかる? 空手の本を読んで空手で闘えるか、と同じだ。本を読めばわかる優秀な頭脳とは、「才子才に倒れる」である。
 マルクスは自分で資本家になって会社を経営してみることはせずに、本を読んで考えただけである。そこに彼の『資本論』は大きな陥穽を抱えることになった。

 滝村氏も就職した三流大学で、そういう実験をすれば国家論はもっと発展したであろうに、おそらくはそんなことはやらずに、彼を慕ってくる優秀な若者に教えていただけではないだろうか。
 本で読んでおけば解釈は説ける。弟子も優秀だからその解釈が国語力でわかる。

 滝村隆一氏は、南ク学派の措定した〈生命の歴史〉を知らずにいただろう。惜しいことをした。人類になぜ国家が誕生したかは、〈生命の歴史〉の解明なしにはあり得まい。逆に、国家を創って統括してみないでは〈生命の歴史〉も解けないはずである。
 むろん、人類に国家が本格的に誕生する以前は、なにが「プレ国家」なのかも解けない。

 滝村氏の欠点は、近代国家を正面に据えたことだと言われる。〈生命の歴史〉を学ばなかったから、あるいは自分で“国家”を動かさそうとしてみなかったから、「アジア的、古代的……」と区分けした国家の歴史が、いわば〈生命の歴史〉性を帯びなかっただろう。彼は近代国家から過去を見たのであろう。

 近代国家で国家論を作ろうというのは、空手でいえば、参段の空手を見て空手の論理を解けると思うようなものだ。自分で白帯から黒帯になるまで修行してみて、また何人も黒帯を育ててみてこそ、空手の論理がわかる端緒につける程度であろうが、本で読んだだけで白帯から黒帯、さらには達人に至る論理(上達論、極意論、指導論、技術論など)が解けるはずがない。

 それがわからない媚中・副島隆彦は、国家より先に宗教があったなどとトンチンカンを言う。
 言うまでもあるまいが、人類は〈生命の歴史〉の過程で誕生し、発展してきている。その人類は誕生したときから国家を形成せずには存在できなかったのだから、言うなれば統括のありようの大きな論理は、〈生命の歴史〉から続いているというか、同じなのである。

 国家がわかるためには組織を創って統括してみなければわからないし、同様に〈生命の歴史〉もまた、組織を創って統括してみなければ解けないのである。
 南ク学派の〈生命の歴史〉を「テーゼ」とするなら、滝村国家論は「アンチテーゼ」であって、次は誰が「ジンテーゼ」を確立するか…とか言っている向きがあるようだが、それは大外れである。

 先に挙げた風呂の中でも本を読み耽る滝村氏のありようにも現れているように、まさに弁証法を棄てた学究の姿であって、そんなことではとうてい「アンチテーゼ」が出せるわけがない。

 学者志望者にとって、空手をやるとか、会社を経営してみるとか、なにか組織を動かすとかは、なにもその道で名を残すためではなくて、組織(=国家)の構造に分け入る訓練のためである。
 大仰でなく風呂の入り方一つが、哲学あるいは〈生命の歴史〉の謎を解く術(すべ)なのだ。
 南ク継正先生にだけ哲学が解けたのは、武道とは何かを究明したからである。武道はいうまでもなく、生の五体を駆使するのである。

 生の五体を使って武道をやってみなければ、その生身で論理構造に分け入る術(すべ)が身に付かない。論理が感情にもならない。
 人間は、生の五体で分からないことはわかるわけにはいかない。
 だから滝村氏は空手を続けるべきだった。彼は生の五体でわかろうという道は歩むことがなかった。本にしがみつけば解るとした。後進の人たちも同じだ。〈生命の歴史〉も五体で解ろうとしなければ、解らないはずなのだ。

 これも以前の話だが、天寿堂稲村さんの弁証法ゼミで、空手はまだ初心者なのにヘーゲル哲学を解っているとしてレポートを出した弟子がいた。稲村さんは絶賛した。そんな軽々しく褒めるべきでないのに…。空手をある程度極めて、生の五体を駆使して論理構造に分け入る術(すべ)を身に付けもしないで、弁証法もヘーゲルも解るとは恐ろしいことだった。

 本の耽読で勉強したとするのは、人間の五体にも認識にも大きな歪みを生じさせる。バランスを崩す。活字からの反映は見事になるかもしれないが、活字からしか反映しなくなる怖れがある。
 しかもその本が専門分野ばかりでは…。
 空手でいえば、その場突きはやらなければ黒帯になれない。でもその場突きだけではダメなのと同様だ。あるいは右の蹴りだけ練習して左足を稽古しないようなものである。それが滝村さんだったと思う。

 例えばわが流派では、最近はフォークダンスや民謡を練習に取り入れている。ただひたすらの突きや蹴りの練習では上達ができないからである。なぜそうなのかは、いくら口で説明しても(つまり本で読んでも)やってみなければ解らない。しかるに秀才は、みんな本で読んで解釈できると思う。こういうのを平俗で「頭デッカチ」と呼ぶ。

 本の耽読人生は、子供のファミコンと同じである。あるいはテレビにかじりついている子供と。風呂に入ることは、一つの運動である。いうなれば手足を動かさなくてもカラダが運動形態に置かれる。
 だから湯船の中でじっとしているよりは、カラダを動かしたほうがいい。じっとして本を読み耽ると、運動が狭く固定されてしまう。

 さらには、五感器官の反映が薄く感情を創ってしまう。舛添がこれだったのだ。だから風呂にまで本を持ち込めば、お湯のぬくもり、カラダをほぐしてくれる湯の動き、匂い、湯気、裸の爽快感など、五感器官で感じることがたくさんある。なかんずく露天風呂の爽快感は格別だと感じるだろうが、その感覚を味わうことなく本に没頭するとはコレ如何に、だ。よくもそんな反映をシャッタウトできるものだ。

 この滝村氏の風呂のエピソードを教えてくれた友人は、感極まった様子で、自分も見倣うと言って、必ず風呂に本を持ち込んで読みふけるようにしていると言っていた。やめなさいよと言ったが聞こうとしなかった。強烈な滝村信者だったが、案の定、何の学的成果も上げられなかった。
 
 学者こそ五感で味わって感情像を創らなければいけないものを、本で、あるいはテレビで味わったつもりになる。それがなくて解ったつもりとは、国語力でわかるだけなのである。
 




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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