2016年08月13日

弟子を育てずして世界的学者にはなれない


 過日、国家論の滝村隆一氏のことを取り上げた。
 あの原稿は6月中には書いておいたものだったが、アップは7月後半になった。その後に南ク継正先生の新著『武道哲学講義(3)』(現代社)が発刊されて、この中では滝村氏を取り上げてずいぶんと論じておられる。

 そこで改めて、滝村氏に関して補足して論じておきたい。
 第一部の中に「カント、ヘーゲルの学的過程には、学問成立に必須の討論相手が存在しなかった」という節がある。
 カントもヘーゲルも哲学の創出を目指しながら、及ばなかったわけを、南ク先生は説いておられる。

 カントは「時間」と「空間」を用いて観念論的証明である「二律背反」は、ゼノンの論理の模倣(あるいは具体化)でしかなかった。これはヘーゲル自身も批判している。しかもカントの弁証法の実力は、エンゲルスにさえ遠く及ばないレベルでおわった。

     *     *

 学問レベルの弁証法をモノするには、それにふさわしい論争できる程度にまで育てあげることが可能な相手(すなわち本当に一から手塩に掛けるレベルで説きながら育てる弟子)が、本来は必要とされるのであるが、カントの伝記を調べれば分かるように、カントの学的レベルでの相互浸透の相手が悪かった、というよりよくなかったのである。
 (中略)
 彼は大学教官であったから周囲にいわゆる優秀な人材はいたはずであり、当然にそれらとの相互浸透はあったといってよい。すなわち、これらを含めて弁証法の修学としての相互浸透はよくなかったのだ、というべきである。

 本来、ではどうあるべきだったのだろうか。これは「本当に自分が育てなければならない程度の弟子がいなかったから!」に尽きるのである。市長でも村長でも真に学ぶ(自分が育てなければならない)弟子であればよかったのである。それに加えて、しかも、カントは自分の住んでいるケーニヒスベルクから一歩も市外(?)へ出ることなく、ケーニヒスベルクの生活で一生を終わってしまったからである。

 したがって、自分の頭脳を学問化する上での本物の外界の反映がとてつもなく小さく、狭くかつ薄かったといってよいのである。本来ならば、学問的対象がアリストテレスやヘーゲルのレベルで反映してこなければならないのに……である。だから逆から説けば、ゼノンの学的場所までは到達できたのだともいえるのだけれど……。

 以上を要するに、ゼノンから先へ論理の研鑽を進められなかったのは、会話する相手に、誰一人としてまともな学的、理論的論争のできる学者はもちろんのこと、理論的研鑽を積める相手がいなかった、からである。理由は、カントの周囲にいる人は、彼の頭脳や生活に憧れるだけで、まじめに討論できる人物に出会えなかったということに尽きよう。
  (中略)

 本物の研鑽は強力な弟子たる相手との人格を賭けての、相手を打ち倒すほどの討論(闘論)を通して、相手と自分の双方の学的不足分(仮に互いに自信満々であったにしても、である)を互いに徐々に埋めていくことによってこそ(すなわち、自らの学的社会的関係で学びえた学力を貫き通すことによってこそ)、自己の学問化を図れたのであり、かつその道程を創出していくことができたのである。

 すなわち、これこそがヘーゲルがプラトンを評価しているように学的・弁証法的方法であったこと、すなわち弁証法的能力を学問的に創る方法だったのだということを、我々は理解できなければならないのである。

     *     *

 むろん、滝村氏も精一杯「国家論」の学問化に励んだのだが、自分一人で風呂に入ってまで本を読むような刻苦勉励では失敗するしかなかった。本来の学問への道とは「社会的関係、社会的反映に基づいてのみ歩き通せるもの」だから、なのである。
 すでに述べたように、滝村氏は末流大学に就職してから、ボンクラ学生をなんとしてでも自分と学的討論ができるレベルに育てなければならなかったのだろう。

 南ク継正先生の『武道哲学講義(3)』には、ヘーゲルがなぜ『精神現象学序論』を書いたか、またマルクスがなぜ『経済学批判』を途中で投げ出して『資本論』に取り憑いたかの謎解きがなされている。いずれも大学の就職を狙った論文をこき下ろされて、頭にきて書いたものだと解明されていて面白かった。
 滝村氏にも国家学から政治論論文に移行したのには、そうした「動機」があったやに…。

 カントもヘーゲルも、マルクスも、そして滝村氏も「第一歩としてその本物の初歩から教える弟子を育てることをしないままに、己が頭脳に自身を持っての研鑽のみを信じて学問化を図っていたことが、学問的な頭脳活動に発展性を止めてしまった所以」なのである。才子、才に溺れる…である。

 今も三浦つとむ氏の信奉者は多いようだが、三浦さんは弟子入り志望者はいっさい認めなかった。「希望した人に対しては、若い友人としてのみ扱い、それこそ適当に弁証法的に遊ばせてしまったのである。本当は、その弟子志望者に対しては、科学的弁証法なるものをイロハから教える流れの中で、ソクラテスレベルであったにしても、再三、再四、自分の学的能力を鍛えかつ再創出すべきだった」と南ク先生は説いておられる。
 「弁証法的に遊ばせてしまった」とは強烈な言いようであるが、決して嫌みではない。そこを誰もが、マルクス、エンゲルスはいわずもがな、ヘーゲルやカントでさえ等閑視して失敗したのだ。

 論争相手を選ぶことがどれほど、学の正否を決定するか。あだやおろそかに、先輩だからとか、知っている同業者だからとか、いくらか物知りだから、で気安く対応していいものではない。
 「第一歩としてその本物の初歩から教える弟子を育てる」ことの厳しさは、私はいくらかは知っている。本ブログでも何度か軽く触れたが、「本物の弟子を育てる」とは地獄と言って良いほどの指導・被指導の関係なのである。

 はなから誹謗中傷が目的のおバカなんかにかまっている暇があるものか。
 その、人様を誹謗中傷するために生まれてきた愚物は、才子、才に溺れていて、「俺はわかっているんだ」と自惚れているだけ。なぜなら「弁証法的能力を学問的に創る方法」を創出することもできなかったからだ。人類の歴史で初めて、南ク継正先生が創出を成し遂げたのである。






posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 🌁| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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