2016年08月18日

学問書を読むにあたっての素直さ


 人間はどうしても、自分は正しいと思うし、己れを批判している相手が間違っていると思いたいものである。
 よほどの精神的鍛錬をしないと、この性格は誰にでもあって、避けるのは難しい。
 これが日常生活の出来事程度なら、簡単に自分の非を認めて謝ったり、話し合ったりできるだろうが、事、学問的なレベルの論争となると、絶対に引けないことになる。

 「浅学非才の身ながら…」とか「凡根の身を顧みず…」とか自著に謙遜を記す人はいるけれど、これはまあ社交辞令であって、みんな自信満々である。人の意見になんぞ耳を傾けたくないものだ。

 これは言ってみれば悲しい(哀しい)人間の性(さが)であろうか。自分もそうなんだと自覚していなければなるまい。
 だからこそ、人は端的には友人が必要なのであり、師弟関係も必要なのである。己れの未熟や過ちを正してくれるのは、同じレベルのライバルであり、先生であり、弟子であり…する。ナポレオンも言っていた「敵こそ友である」と。

 これは言い方を変えれば、古代ギリシアで誕生した弁証法つまり弁じて真理を証だてる方法としての(初歩の)ありようの利点でもあったのだろう。
 だから以前、本ブログで「巨星になりそこなった滝村隆一氏」を書いたときに、滝村隆一氏は果たしてそういう機会を持つことがあったのだろうかと疑問を呈したのだ。

 さて、話は南郷学派への評価に関わるのだが…。
 人によっては「南ク学派は生命の歴史の論理で人類の歴史も解けると豪語したにもかかわらず十年たっても解けていない」現実があるではないかと侮蔑の言葉を記す向きがある。
 そう思うのは勝手であるが、学派がまだ解いていないのではなく、説いていないだけなのだと考える謙虚さや配慮がどうして思い浮かばないのか。

 現に南ク学派の新著『「生命の歴史」誕生の論理学』(浅野昌充/悠季真理著 現代社)にはこういう記述がある。
 これはヘッケルの反復説(固体発生は系統発生を繰り返す)の生物学史上の意義を説いた箇所である。

     *     *

 「系統発生」とは、例えば人間が、その祖先としての系統を辿ることのできる進化により、この地球にその昔、誕生した単細胞が三十五〜四十億年かかって人間にまで発展した歴史のことをいうのであるが、新たな生命すなわち受精卵に始まる個体の誕生は、その祖先が辿った約三十五〜四十億年もの進化の道筋をあたかも辿り返すような形式で母親の胎内で育って(個体発生は系統発生を繰り返すとの形式かつ生成過程を経て)産まれて来るということである。

 もっともここは正式にはDNAの発生かつ実態の形成過程としての、実体とその実体の歴史性を把持しての繰り返しなので、本来ならばそこを通しての論の展開をなすべきなのではあるが、まだまだとうてい、読者の能力では理解不能と思われるほど高度なレベルなので、ここでは置くとしたい……。
   (引用終わり)

     *     *

 素直にこの文章を読めば、筆者が説いて(解いて)ないのは、筆者の到達した論理レベルがあまりに高みにあるので、いきなりは読者に解いても分かるはずがないと親切に書いてあるのである。
 しかし己れに自信があり、ひねくれた人のなかには、「ふんッ、テメエが分からないからこう言う言辞を弄して逃げている(はぐらかしている)」と揶揄的にしか受け取れまい。

 南ク継正先生の著作も同じであって、答えの全てが書かれてあるわけではない。そこが素直ならざる心で読んでしまうと見てとれないのである。南ク先生の著作は、いわば解答集ではない。問題集なのだと読み取れない人は、哀しいまでに論理能力が欠けている。

 やさしく言うなら、自分で実践して自分の実力で解きなさいとしてしたためてある。空手で言うなら、技の形は教えるから、あとはあなた自身が運動して、技化し、魂も技化しなさいというのが、南ク継正先生の書であるし、指導法でもある。

 また空手で譬えるなら、初心者に対して道場の師範が、ごく初歩の立ち方とか歩き方とかを教えたとすると、初心者が「なんだこの先生は、本物の空手の闘いかたを知らないから、立ち方と歩き方しか教えられないのだ」とバカにするようなものである。
 小説や解説書ならともかく、学問ともなれば、説くにも解くにも順序があり、レベルを踏まえて解いていくべきものである。

 子供に数学を教えるにも、小学校の算数も勉強していない子に、いきなり微分積分を教えて分かるわけがないではないか。

 もし空手の初心者で、はなから師範をそういう目で見たなら、決して上達することは不可能だとわかるだろうに。ところが学問的書物だと、同じことをやってのける人が出て来るのが不思議である。
 南ク継正先生の本は「隙だらけ」と言い切る人も同様で、まだ解いても読者に分かる実力がないから…と説かないでいるかもしれないのに、一方的に書いていないのは書けないからだ、隙だと思うのは、いかがなものか、なのである。

 しかもどこがどう隙で、それをどう書くかを説明しないのは何度もいうが、それを媚中・副島隆彦式というのである。

 『「生命の歴史」誕生の論理学』の一節を紹介したが、DNAのレベルで解いてしまうと、まだ高度過ぎると筆者が書いているのだから、素直にそうか自分はもっと本を読み込んで、自分の専門でまずは弁証法をわかり、〈生命の歴史〉を分かろう! となればいいのに、「ふん、どうせ筆者も解けていないくせに」と誹謗中傷する向きがあるとは、なんとも哀しい。

 これがまさに、人様のブログやHPにやってきては、誹謗中傷、揶揄をこととするばかりの輩と、熱心にやりとりをやってしまって相互浸透した結果なのである。あだや「論争」も疎かにしてはいけないのだろう。
 『「生命の歴史」誕生の論理学』は、書物として世に出たのである。
南ク先生も何十冊も本をだしておられる。自分がまだ一冊も書物を市販できるレベルでものしたことがないのなら、それを恥じて精進するのみではないか。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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