2016年08月31日

敬語の美と誇り(3/3)


《3》
 林秀彦さんの敬語についての考察に異論はないが、私はちょっとだけ付け加えたい。「日本人はどのような人間関係のなかにも、相手への敬意をにじませるという民族的な習性を持っていた」とおっしゃることには賛成だ。ただ林さんは先の文章でも内実としては含んでおられるから詳しく書かれていないのであろうが、敬語は日本人にとってはプライドだということを付け加えたい。

 プライドのある人間は、人となれなれしくしない。だから大阪庶民のようなベタベタする関係を嫌う。自分のことはしゃべらないものだ。同情は求めないし、他人に同情することもしない。だから私もかくありたいと思って、ブログで自分のことをペラペラしゃべってこなかった。人前で私生活をさらすのは恥である。自分を人前で崩すことを潔しとしない。崩したくないから、言葉は選ぶ。それが敬語になる。

 相手をたてるから敬語を遣うのだが、それは相手に毅然としたところを示すためであり、簡単に自分をさらけださないためである。自分がズンだれた態度を相手にさらさないために、相手をたてているのだ。また、自分自身の生きざまと、日本文化への愛着と誇りが敬語をつかわせる。敬語を遣うのは神経をつかう。それだけにその言葉の選び方の慎重さが、プライドとして、品格として相手に伝わる。日本社会の文化的上層はそういう人間関係を形成してきた。

 こういう教育を私は幼いころから親や教師に躾けられた。東京という国家の首都で育ったことも幸いだった。明治になって、標準語が決定されたときに、当時の為政者が江戸期の武家の誇りある言葉を採用したことには、われわれは深く感謝すべきである。江戸時代、武士は自らを天下人として自覚して、その誇りを生きたのであり、だから彼らの使った敬語が明治以降も生きた。

 井上ひさし氏に『国語元年』という戯曲があって、この明治初期の標準語をどう採用するかの混乱の様子を描いているのだが、ただ面白おかしく方言を発しあっていて、標準語の制定を単に全国民が意志を通じさせるため、という捉え方しかしていない。思想性の高みで標準語や敬語を捉えられていなかった。

 それにプライドについてこんこんと教えを受けたのは、わが流派に入門してからであった。武道と称する道場は、一般のスポーツよりは礼儀作法にやかましいようだが、われわれの流派はそんなレベルではない。
 プライドについては厳しく指導をされたものである。

 例えば「プライドある人間は、親戚づきあいもしないし、友達づきあいもしない」「人と仲良くするときは人を選べ。プライドを持った仲良しでなければならない」「プライドがあれば毅然として相手を近づけない」「人格の最高形態がプライドだ」「プライドのある人間は、週刊誌ばかり読んでいることはあり得ない」「東海林太郎は直立不動の姿勢で歌った。あれがプライドだ。魂が直立不動にさせる」などなど。折りにふれて指導された。
 これでプライドが敬語をつかわせるという意味がわかっていただけるだろう。決して権力者とか上司とかにおもねるための言葉が敬語なのではない。

 一般には誤解があると思われるのは、敬語は“ある”と思っていることだ。敬語も創るものである。基本形はむろん歴史的に創られてきたものではあるが、それにどれほどの至高な意味を付与して自分でつかっていくかが問われる。だから“ある”のではなく、創るのだ。別の言い方をすれば封建制の名残であった敬語をアウフヘーベンするのである。

 プライドは精神のあり方であるが、それは実体をして表さなければ人に通じない。形として表すものだ。だから言葉遣いとしては敬語になる。敬語をつかうのは自分にプライドを持っているからで、プライドで相手の話を聞き、自分のプライドが口をきく。だから必然、敬語になる。

 言語は認識の一部を切り取っているものだから、もとは認識如何なのである。林秀彦さん流にいえば「相手への敬意をにじませる」との認識が、敬語をつかわせる。だからわれわれの認識=精神のありようが、形として表されたものが敬語になる。
 よく方言を平気でつかう人がいるのが、私には不思議でならぬ。冗談で言うならともかくも。大阪の悪口ばかり言うようだが、彼ら大阪庶民は標準語を話すべきときにも、平気で大阪弁をしゃべる。

 関東の言葉は「気取っているから嫌いやねん」、というのかどうか、大阪弁は一つの文化圏だという自負があるのだろう。しかしそんなものは所詮は田舎者のたわごとである。
 私は別に大阪弁自体が嫌いなのではない。平気で田舎弁としての大阪弁をつかう人のガサツな神経が嫌いなのだ。もう近代以降、標準語として定着した日本語には、その言語を形成している文化が創られてきたのだ。大阪庶民は悔しいかもしれないが、現在の日本文化は標準語に支えられている。日本文化のプライドが、標準語の敬語なのだ。

 欧米の言語にはほとんど敬語がない。日本語にはうるさいほどにある。だから西洋かぶれのアホがときどき、西洋語のほうが合理的で、七面倒な敬語なしに単刀直入に話しをしたほうがいいなどと、日本語から敬語を廃止しろと主張することが起きる。
 冗談ではない、言葉は単なる記号ではないのだ。敬語をつかうとは、時と場合、上下関係などに神経をつかって言葉を選ぶ分、認識は豊かになるのである。敬語はきちんと決まりがあって、崩すことは許されない。だからいいのだ。

 敬語をつかうと、親しみがないとか、冷たい人間関係になるなどとほざくバカもいる。そう言う奴はさっさとアメリカにでも行け。ではアメリカンは親しみばかりか? 温かい人間関係ができるのか? 世界中で戦争を仕掛け、黒人やアジア人を奴隷にし、平気で原爆を落とせるあのケダモノの言葉がそんなにいいのか? 野球でもちょっと使えなければ非情にクビにする。すべてカネの世の中。

 いいことなんか何にもないじゃないか。敬語も同じであって、なくせば平和で階級差別のない社会がくるとでも思っているのだろうか。
 かつて日本領であった台湾や韓国は、もう日本語世代は消えつつある。だが75歳以上の人はまた日本人以上に正しくきれいな日本語をつかうそうだ。敬語も見事なのだろう。

 そういう世代の方たちは、決して一方的に日本を悪者にしていない。正しいものの見方をされていると聞く。かの地ではそれなりに苛斂誅求はあったにせよ、敬語も含めて日本語がいかに優れた文化を運んだか、根付かせたかがわかるではないか。台湾でも韓国でも、それは人間としてのあるべき心遣いやプライドを、言語と直接に修得させたからに他ならない。

 よく病院では看護婦が、あるいはリハビリセンターでは介護士が、自分より年上の老人をつかまえて、「ほら、おじいちゃん、体起こそうね〜」なんて、敬語抜きで話しかけている(タメクチ)。それは親しみの表現にはならない。ずんだれた認識で看護・介護をしているだけのことだ。

 これを称して、自分を崩している、というのだ。職業にプライドがあれば、いかなボケ老人にでも敬語はつかうものだ。あるがままの自分で生きる人間はバカだが、看護婦や介護士は楽な仕事の仕方を選ぶことで、まさにあるがままの自分で生きている。
 そんなことならネズミやゴキブリと同じ生き方でしかない。仕事に誇りがあったなら、毅然として仕事をするし、おのずとボケ患者にも敬語をつかわずにいられないはずである。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
門外漢で申し訳ありませんが、私も筆者さま同様に思います。外国語に敬語がほぼ存在しないこと、関西に敬語が薄くゾンザイなこと。同感です。私は地方の人間(東北の田舎)ですが、本当は帝都に育ちたかったです。標準語が選定された意味、謙譲の心得など、高齢のいまから新しく学ぶには限度があります。
でも諦めてはいません。残された時間で私も日本人として恥ずかしく無く最期の時を迎えられるよう精進して参ります。ネット上ではありますが、厚かましくも今後とも筆者さま始め皆さまにご指導頂ければ幸いです。

肉体疲労児
Posted by 肉体疲労児 at 2016年09月01日 01:50
肉体疲労児様
コメントいただきありがとうございます。
余計なお世話ですが…ハンドルネームが暗いのでは? もっと明るく溌溂、前を剥いたお名前になさってはいかがでしょう。

言葉を直すということでは、ご存知かと思いますが、古くはオードリ・ヘブバーンが演じた「マイフェアレディ」、最近ではそれのパロディである周防監督の「舞妓はレディ」も参考になりましょうかね。
がんばってください。
Posted by 肉体疲労児様へ(ブログ筆者です) at 2016年09月01日 06:25
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