2016年09月06日

「自己の相対化」の大事性(1/2)


《1》
 「自己の相対化」という概念に基づけば、人間の性格にはざっくり言って2つあるように思われる。
 わかりやすくは、おおむね、であるが、韓国人や支那人にはこの自己相対化が苦手、ないし一顧だにしない者がほとんど。言うなれば「自己の絶対化」がほとんどであろう。
 日本人は基本的に自己相対化ができている。

 自己の相対化とは、哲学用語でいうなら、「即自」と「対自」の概念に相当する。いずれの用語も本ブログで何度も繰り返して紹介してきた。なんだっけ? という人は本ページから検索してみていただきたい。
 
 あるいは、海保静子先生が説かれた「自己の他人化」ができるかどうか、「自己の自己化」しかできていないのではないか、の問題でもあると言い換えることもできよう。

 ところでリオ五輪では、韓国は大きくメダル数で日本に遅れをとった。したがって、日本に優越感を持てず、いちじるしく盛り上がりに欠けたという。日本はメダル数で韓国に勝ったなどと喜ぶ者は一人もいない。それに関して、産經新聞の黒田勝弘記者が記事にしている。それをちょっと読んでみたい。

     *     *

 韓国のテレビで韓国が出場する場面を見ることが多かったが、韓国のスポーツ放送であらためて気付いたことがある。
 アナウンサーと解説者が一緒になってやたら絶叫するのはうんざりだし、「いいぞ!」とか「ダメ、ダメ!」「がんばれ!」など激励が多いのも仕方ない。ただ「こうすべきだ」「こうしなければいけない」…を連発し、アナウンサーや解説者が監督みたいに選手にしきりに注文をつけ、叱ったり、諭したりして威張っている感じは韓国的だ。

 つまり、試合の現状や双方の選手の闘いぶりという客観的な事実の伝達より、「わが選手はこうすべき」という“べき論”に熱を上げているのだ。
 これは韓国マスコミの体質に通じる。国内政治でも対日関係でも客観的な情報提供より、いつも「こうすべき」「ああすべき」と批判、扇動ばかりしている。(8月20日付)

     *     *

 面白い観察である。さもありなん。スポーツ中継が目に浮かぶようだ。上から目線、という好例だ。
 そこで思い出したのが、西尾幹二氏と呉善花氏の対談本『日韓悲劇の深層』(2015年 祥伝社新書)である。
 これは日韓関係がひどく悪化した背景を、両国の国民性や文化から読み解こうするものだった。

 呉善花氏は韓国人の“歴史認識”を次のように説く。
 「デタラメな基準で生きている日本人は真の価値が理解できないから、いつも頭を叩いておかないと彼らは何をするか分からない。双方の国民がそれぞれ意見を主張し合って互いに歩み寄る、というものでは決してないのです。日本人がやることは、韓国の主張をただ受け取るだけ。反論や異論などとんでもない。繰り返しくり返し、韓国の言うことを、日本人は心して聞けということです」


 韓国人の“歴史認識”こそ絶対で、日本は真実を知らないんだと、決めつけているらしい。だから話が噛み合ない。
 この本で再三問題になったことが、韓国人は自己相対化ができない民族だということだ。日本人は自己相対化ができる。
 これはどういうことかというと、日本人の場合、何かで他と対立・対峙したときに、いったんは自分を置いておいて、違う見方があるかも、もしかして自分が間違っているかも、相手の意見に耳を傾けてみようと、多角的に考えることができる。

 子供のころからこれは「即自」から社会的認識で磨かれて「対自」になって成長できていないと、自己の相対化ができにくい。自分をまずは置いて、外のものごとを相対化して見られる(対自)、これが多くの日本人の優位性である。
 自己の相対化ができる人のマイナス面は、自己主張の弱さや押し出しの貧弱さにもつながるだろうが、客観性も身に付いている。

 呉氏はこう語る。
 「私が日本に来て身に沁みて感じさせられたのは、『自分はこれが正しいと思う』という考えを持っていながらも、いま言ったような未決定の姿勢を失わず、できるだけ物事を相対的に見ていこうとする人が、日本人にはとても多いということです。ですから自分に忠実であろうとするほど強い自己主張ができなくなるのだろうと思います」

 「私もそうでしたが、韓国人には自己相対化がなかなかできません。とても自己中心的で、……他者に照らして自分を省みるようなことがないのです。比較ということでも、関心はもっぱら、『どっちが上か下か』になります。」


 さすがにするどい比較文化論を展開している。なるほど、だからスポーツでも学問分野でも、韓国人は日本に勝つか負けたかだけに関心を集中させる。

 西尾幹二氏は、こう言う。
 「自分を捨てて客観性を知ることは法意識の確立につながる。それがない韓国人は人治主義から抜け出すことができず、法治主義が育たない。王様の独断に頼ったり、独裁制になったりする。王様の人格で善悪が決められる。」

 支那もそうだし、北朝鮮も見事にそうである。北朝鮮の「首領様」への熱狂はただ強いられているだけでなく、民族性なのであろう。日本は人治主義から脱しているから、天皇を絶対君主としてこなかった。ゆえに相対化が出来るようになり、逆に相対化ができるから天皇をいわば象徴としていられるのではないだろうか。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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