2016年09月10日

「口撃」とはなんの謂ぞ


 一流のホテルなりレストランでは、客に正装を要求する。男なら必ずネクタイ着用とか洋風のきわめてフォーマルな服の着用が礼儀である。アラブの人にはどうするんだろうと思うが、まあいいとしよう。これは常識である。
 そんな高級レストランで、乞食のなりをして行き、カネは持っているぞ、俺の味覚は一級だと主張しても受け入れられない。

 この世の中は何も味覚の優劣や、料理の批評ができるだけが価値のすべてではないからだ。
 私も大学を出て社会人になりたてて、給与も低いときに、向学のためにと思いたって、女性を誘って、そうしたネクタイなしには入れない一流レストランに行ったことがあった。
 給料の1カ月分が一晩でふっ飛ぶから、身分不相応とは思ったが、社会の一流の「おもてなし」とはいかがなもの? と知っておきたかった。

 場末の定食屋や小汚いラーメン店でも食べるのに変わりはない、気取って食うなんてバカだ、うまいに限るとする考え方もあるのだろうが、文化はさまざまなのであるし、文化の高みとはいかなることかを分かっている必要はあるというのが、当時の大学出たての若輩者だった私であった。

 しかるに、世の中には、味だけが決め手であって、ほかの価値はみとめたがらないご仁がいて、驚かされる。
 ある医療研究者のHPの掲示板には主宰者の論文やそれへの反論などが載っている。

 私は諸事情あって読むことはないが、親切な人が何人かいて、ときどきメールで、「あなたのことがこんな話題になってますよ」と教えてくださる。メールなので仕方なく、その掲示板の中身を読まされ、やっぱりゲンナリすることになるが…。
 最近は「青雲氏の東洋医学への口撃について」と題して、論争がなされていると聞いた。私の『支那は昔から医書でも嘘つきだった』(8月10日付)への誹謗中傷であるらしい。くり返すが私は下らないから読まない。

 そういうものがあると教えてくれた人は、あれこれ中身を言っていたが、読みもしないものは批評はしないでおく。
 「青雲氏」と勝手に略して人をバカにした言いようをするのも卑しい人間だが、ただ、私はタイトルの「口撃」という言葉が、まるで雑巾で顔をなでられたような不快感をもよおしたものであった。

 「口撃」などという日本語はない。マスゴミに巣食う反日というほどでもないバカが、創った「造語」にしかすぎない。テレビ番組のワイドショーなんかで、あるタレントがほかのタレントを揶揄したり、怒ってみせたりするさまを、口でしゃべって攻撃するから「口撃」としたのである。

 こんな汚い日本語を、平気でつかえる神経に私は反吐が出るのだ。
 某カルト教団が、憲法に「加憲」するなどと言って、妙チクリンな造語を開陳しているが、このおぞましさと同類である。

 いずれこんな言葉でも人口に膾炙していって、権威ある辞書に載ることもあるだろうが、今はまだスラングである。こんな言葉をつかうのは教養ある人間の恥じることである。
 日本語を大切にするマインドを持っていない。言うまでもないが、日本語にはわが国の偉大な歴史も文化も詰まっている。その恩恵を日々蒙り、藝術や学問でも活用できている誇りと感謝がなければならない。だからこんな下品な言葉を創った奴は在日ではないか。

 日本語を心から美しいと思えなければ、学者も作家もジャーナリストも失格である。
 こんなスラング、俗語をつかうことで日本語を汚していいと思える、その文化レベルの低さに唖然とする。
 それをまた、注意するか嗜めることもせずに、議論の中身だけが大事と思ってか、論争に応じる方の文化度が悲しい。

 そもそも私は東洋医学を批判したわけではなく、杉田玄白らが苦労して訳した『解体新書』を取り上げて、彼らが頑張る前の日本では、支那の医書がいわば教科書となっていたが、人体図なんかが嘘ばっかりだったとする逸話を紹介し、やっぱり昔から支那人は平気で嘘をつく連中だったのだな、と言ったまでである。

 それにブログに文章として載せたのであって、口でしゃべったわけではないので、「口撃」なんぞという下品な言葉に当てはまることはしていない。こんな区別もできない輩が、人様のHPやブログに押し掛けてものを言うことに私自身は本ブログで拒否している。

 南ク継正先生のお書きになる論文は、日本語としても美しく、格調高くかつ理路整然である。なのに、弟子の一人だった方が、師の教えを無視して、離れたら罵詈雑言を浴びせこんな汚いスラングをつかう輩と親しく論争する、というほどにやっぱり相互浸透して、落ちたのである。

 たったひとことの「口撃」という言葉ではあるが、そこに文化に対する、あるいは日本語への敬意のありなしが凝縮して現れるものであるから、取り上げた。
 学問的論述が正しければ(本人の主観にすぎないが)、どんな汚いなりをしても構わない、便器で飯を喰ってもいい、みたいな姿勢はあまりに悲しい。

 いうまでもあるまいが、言語は教養の基(もとい)であり、鍵であり、神髄である。人間であれば、何かの意見や情報を人に伝達すればそれで良いのではない。言語を実用面でのみ考えるのが、アメリカ人、支那人、朝鮮人であろう。そういう連中は、結局、野蛮から抜け出せないでいるではないか。言葉をそのように粗略に扱うから、人間をやがて非人間化していく。

 東洋史学の泰斗である岡田英弘氏は、文字と言語に関してこう述べている。
 「漢字は表意文字で表音文字ではない。言葉は音である。」「漢文は言葉を書いているのではない。意味しか表現していない。しかも変化がまったくない。格変化もないし時称もないし、性も数もないし、要するに文法がまったくない」「ありきたりのことしか言えないのが漢文の宿命である。これは論理表現の方法がない、感情表現の方法がないという恐るべきことである」「非常に情報量が少ない。中国史というのは不利な立場にある。伝えられるのが貧弱なのである」「しかし逆にだからこそ漢字漢文は中国で非常に便利である。大雑把なコミュニケーションではあるが、あの広い大陸に漢字で書けば何とか意味が通じさせられるから」

 と、これは西尾幹二氏が記憶で書いたという岡田氏の話である。
 思えば、アルファベットもハングルも似たようなものだ。
 西尾幹二氏は、この支那人の用いる漢字と漢文についての岡田氏の講義を踏まえて、「なぜか十三億の民の寒々とした心理とことあるたびに湧き起こる罵声や怒号、あの国の政治過剰の背景がわかるような気がした」としたためておられる。

 そのとおりである。ついでに言えば、私が「口撃」などという、いかにも漢語らしいインチキ語を用いる神経にも、寒々とした心理状態を感じるのだ。漢字の組み合わせで、いかにも意味は通じないではない。しかし岡田英弘氏が説くように、日本語でいう「言葉」を表現していないのである。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なるほど、「口撃」が教養人ならつかってはならない下劣な言葉だとわかりました。私もつかってましたから反省です。
いつも勉強させていただいてます。
Posted by KKKB at 2016年09月10日 19:18
岡田英弘先生の漢字・漢文論は、心に沁みました。これが学問の力ですね。中国文化に憧れる人の愚かさを思いました。
過去の歴代中国文学者たち、貝塚茂樹とか竹内好などは、いったい何をやっていたんでしょう。

「口撃」は私も嫌な言葉だと思い、意識して使わないできました。
その根拠をしっかり説いていただき、目が覚める思いです。くだんの掲示板は見ましたが、読むに値しないです。
Posted by まりこ at 2016年09月10日 20:33
KKKB様
コメントありがとうございます。
はい、無教養の輩が「口撃」なんていうのですよ。
Posted by KKKB様へ(ブログ筆者です) at 2016年09月11日 12:07
まりこ様
いつもコメントありがとうございます。
岡田先生は本当に立派な研究者ですね。
Posted by まりこ様へ(ブログ筆者です) at 2016年09月11日 12:08
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