2016年10月01日

志士どもと嘘(2/2)


《2》
 原田伊織氏は、幕末の志士とか、薩摩、長州が、「何らかの国家理念を掲げて」討幕に向かったわけではない、と言う。青山繁晴氏は官許歴史を信じて、志士たちは近代国家の建設、あるいは四民平等の理想社会の実現を目指して、地位もカネも名誉も要らぬとして私(わたくし)を脱して戦ったのだと言う。

 どちらが正しいかと言えば、事実としては原田伊織氏が正しい。青山氏の場合は「解釈」である。美しい話に仕立てているから、個人がそのように捉えて、己が人生の指針とする分には構わない。しかしそれは小説だと思わねばならない。

 三条実美(さねとみ)は、明治政府で太政大臣すなわち事実上の初代首相に昇りつめた公卿であるが、岩倉具視とともに、この時期暗躍した…というかテロリスト集団に利用された。無能で陰険な男で、明治政府の太政大臣になったために、公家らしい優柔不断が国政を混乱に陥れた。公家は平安の昔から無責任、無能で通っている。

 なかには「うちの先祖は公家です」と自慢たらしく言う者がいるが、よく恥ずかしくないものよ。
 三条は孝明天皇からは「重々不埒な国賊」とまで罵られた男である。岩倉同様、公家の位も低いのに、しゃしゃり出ただけ。

 長州藩はこんなバカを担いで、尊王攘夷をネタに主導権を握ろうと図ったのだ。つまり、このことからも、奴らには「何らかの国家理念」などなかったことがわかる。あまりに無能だったから、さすがに担いだ薩長どもも、後世に三条実美の「こんな素晴らしい業績」は捏造できなかったのだ。

 NHKの大河ドラマでも主人公にはできない。
 しかたなく、とっくに死んだ坂本龍馬とか吉田松陰なら美しい話がデッチあげられるとして、官許歴史に加え、英雄として祭り上げたのである。

 さて、そのバカの三条実美は文久3年8月18日の政変(三条実美ら七卿落ち)で長州に落ちていった。
 そのころは、尊王攘夷運動が最大の盛り上がりをみせた、京都には尊攘派テロリストが集結し、「天誅」と称して反対派に対する暗殺・脅迫行為が繰り返された。
 朝廷内においても三条実美や姉小路公知ら急進派が朝議を左右するようになり、2月に国事参政と国事寄人の二職が設けられると、急進派がこれに登用され実権を握った。

 これに対抗して、会津の松平容保や薩摩藩は公武合体派といわれたが、孝明天皇が急進派の攘夷主張を嫌っていたので、朝廷内でクーデターを起こして、七卿を追放することに成功した。
 その後、すったもんだがあった後に、慶應3年10月に政治は大きく動く。慶喜の大政奉還である。

 まず土佐藩が慶喜に対して「大政奉還」の建白書を出す。慶喜はこれを承けて京都二条城に諸藩(約40藩が参加)を招集して、「大政奉還」について諮問した。形式的に諮問したうえで、慶喜は参内して幼い明治天皇に上奏文を提出した。天皇は慶喜に「大政奉還勅許」の「沙汰書」を授け、ここに大政奉還が成立した。土佐藩が建白書を出してからわずか12日後のことだった。
 
 これは官許歴史でも認めている、表の出来事であるが、裏では「尊王」の精神とも、政治的理念とも関係なく、政治的駆け引きだけが行なわれていた。
 この時点では討幕派の公卿は追放されていて、朝廷内で過激派は少数だった。そこで討幕派の岩倉、西郷、大久保らは、なんと偽の「討幕の密勅」をデッチあげた。天皇の署名も花押もないもので、原田氏はこれを「国家的犯罪」と言っている。

 これをひそかに知った慶喜側はまさか勅命が偽物とは思わず、勅命が下ってはまずいと思い、先手を打って「大政奉還」という手に出た。これなら「討幕」の大義名分を消滅させることができる。
 大政を奉還したところで、実際には朝廷にも薩長テロリストにも統治能力はない。だから実権は変わることなく幕府が握っていたのだ。

 朝廷は仕方なく、大政奉還から1週間後には、外交については引き続き幕府が担当せよと指示をだしている。内政だって薩長テロリストには能力はない。

 『大西郷という虚像』で原田氏は、黒船来航の嘉永6(1853)年から以後、「その十年間というもの、幕府はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、プロシャ等を相手にして、次々と和親条約、通商条約の締結を迫られ、独立と国益を守るべく必死の外交交渉を続けてきたのである。討幕の意思を秘める薩摩と長州の過激派は、そういう幕府の足を引っ張るだけでよかったのだ。」と書く。

 そのとおり、官許歴史では幕府が間抜けで不平等条約を押し付けられて無能をさらしていたから、近代化を目指した薩長がこれを討ち倒してご一新を果たしたのだと書いている。そんなことは嘘だった。薩長の下級武士はしょせんテロリストで、外交能力もなく、実務の実力もなく、ビジョンがあったわけはない。

 ただ、イギリス(本当はユダヤ商人)が、薩長のテロリストを唆して、幕府の足を引っ張らせていたに過ぎない。
 ただの素浪人風情の龍馬ごときに、高邁な国民国家への思いなどあろうはずがない。司馬遼太郎の創作である。

 それから「王政復古の大号令」、鳥羽伏見の戦い、江戸開城などの流れも、官許歴史で説かれるものとは、実相は違うのであって、現今の子供の教科書も書き替えるべきであるのに、間違った歴史がつづられている。東大歴史学科の徒弟制度を守るため、大衆には嘘を教えて騙していけばいい、との傾向だけが生き続けている。ずるく、怠惰である。

 原田伊織氏の維新3部作(『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』『大西郷という虚像』)はこれで完結したそうだ。
 できればこれらの書を手にして、本当の幕末史を摑んでいただきたいと思う。
 そうすれば青山繁晴氏のごとき、志士ロマンは打ち砕かれるだろう。

 さらには官許の「官」のなかには、東大を頂点とするわが国の歴史研究者も含まれる。
 とりわけ日本史の分野は、挙げて左翼マルクス主義集団のまま、戦後を支配してきている。奴らは後進の若い研究者に、教授などのポストを恣意的に配分し、与えることで、正しい歴史へのアプローチを禁じている暗黒集団なのである。自民党は「歴史認識は政治の場ではなく、歴史の専門家に任せる」と国会で答弁するのを常としているが、こんなマルクス主義の亡霊研究者どもに官許歴史を任せるとは、間違いである。

 本来なら、政府や文科省が、事実に基づかない歴史を垂れ流す歴史学界を駆逐しなければならないはずである。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
全くその通りだと思います。

ですが、なぜか、私は西郷隆盛だけは好きなんです。
鹿児島の先に行って、南の海を展望したとき、南の海から南蛮が、押し寄せてくるという危機感を感じました。

鹿児島の人には、日本の南端に棲む危機感があったはずです。
Posted by 神戸だいすき at 2016年10月05日 15:50
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