2016年10月25日

頭脳活動を見事にするための条件(1/2)


《1》
 9月末、南ク継正先生の最新刊が現代社の HPで紹介されたのを見た時から、私は興奮を抑えきれなかった。
 それは『武道空手學概論(新世紀編)』(現代社刊)で、南ク継正・朝霧華刀・神橘美伽の共著になっている。みなさんにもぜひ手にとっていただきたい。
 書物のほぼ冒頭に日本語学習の大事性が語られている。「第一章 人間の身体とは何か 人間の頭脳とは何か」の冒頭からである。

     *     *

1 頭脳活動を見事にするための条件とは
 若い諸君はまともに分かっているだろうか。
 優れた頭脳というものは、それだけでは未来に向かって役立つことはあまりない。その優れた頭脳は、その頭脳の働かせ方、即ち諸君自らが使い方をしっかり修得してこそ、大きく役に立てられるものである。それ故、その優れた頭脳の創出の仕方、創出した優れた頭脳の活動のさせ方の双方を学ぶことが、とても大事なこととなる。

 それは当然に、鍛えた身体にも同じことがあてはまる。何故なら、如何に見事に鍛えた身体を持っていても、その鍛えた身体のまともな使用方法(用い方)を知らなければ、大して役には立たないものである。
 
 そして見事な精神についても同様に、見事な精神だけでは駄目であり、その見事な精神を自分の人生にまともに用いて生き抜く方法を学ぶことがなければ、なんのための見事な精神の鍛錬(創造)だったのか、訳が分からないということにもなろう。
 
 因にここで説く頭脳とは、アタマの中身であり、身体とは、カラダの実体たる中身のことであり、精神とは、これも当然ながら、自らのココロが創り上げる中身そのものである。 
 もっと説くならば、アタマの中身とその中身の働かせ方であり、カラダの中身とカラダの中身の使い方(働かせ方)であり、ココロそのものの使い方、働かせ方そのものである。
 そのために、まずは頭脳活動、すなわちアタマが上手に働くための第1歩としての条件を述べておこう。

 若い諸君、諸君は日本人である。日本人であることの第一条件は、日本人としての日常生活をしっかり可能と為すのは当然のこと、日本の歴史、文化としての大和ゴコロが育つことが必須でなければならない。現在、教育界では、「英語」だの「英会話」だのと騒がれている。
 
 だが、である。日本人として日本の社会に生まれてそこで生き続けながら、まともな日本人として育つためには、日本語つまり国語が我が身に実力として備わっていなければならないのは当然のことである。その日本語すなわち国語たる大和言葉がまだ実力となっていないうちに、英語をまともに実力化したら、日本人でありながら、日本文化を学ぶべきまともな学力が育つ前に、その頭脳の生育を棄ててしまうことにもなりかねない。

 ここは真面目に分かってほしい。それだけに日本語をまともに習熟しきってからは、何カ国語でも結構である。
 (中略)
 日本語を真面目に学べというのは、何も受験勉強的に、では絶対にない。日本人にとって、日本文化、大和ゴコロをまともに学べる力を養うべしということにある。

 大学を初めとする日本の先生方は、日本語がどれ程素晴らしく見事であるかを少しも説こうとしない。これは、その先生方は自らの国である日本文化を学ぶための日本語の実力が大きく不足しているからであろう。

     *     *

 昨日の本ブログで取り上げた、日本語を粗略に扱う人たちのありようを突いているとも思える。秀才となって見事な頭脳をもっているかもしれないが、その用い方がいかがなものか…ということになる。相手に向かって「誤解するな」と高飛車に言えるのは、大和言葉とその用いるにあたっての認識が実力と化してしないのである。

 小さなことだが、私はこのブログにコメントしてこられるなかに、「……(WWW)」などと、相手を蔑み冷笑する記号を書いてきたものがあれば、読まずに棄てている。こんな無神経な奴が何を言ってこようが、読むには値しない。
 さらに続けて南ク先生は、現今の学者の実力になさを嘆かれたあとで、解決策の一端として次のように加えておられる。

     *     *

 これは、戦後の占領政策による教育の結果、日本語の実力不足がもたらしたものと断言してよい。日本語の学習は、現在の中学校・高等学校の国語では、まず駄目である。特に、文法とか作文等々に習熟する等は、古文、現代文を問わずである。そのような余暇(スコレー)があるなら、名文たる小説類を多数読むべきである。

 現代の名推理小説は特に! である。高木彬光とか横溝正史とか、或いは江戸川乱歩賞受賞作とか、その候補に挙った人とかの、である。 
 日本文化の教養は、見事な古典と外国語の古典をまず、当時の時代的言葉でしっかり学習することから始まる。
 (以下略)

     *     *

 私の青春時代は小説ばかり読んできたから、その意味では日本語の学習に一役買ったかと言えるだろうが、学問的書物が少なかったのが良くなった。
 名推理小説の類いもずいぶん読んだが、文章の学びとしてこなかった悔いが残る。

 南ク先生が、しいて推理小説を挙げておられるのは、いわゆる日本の純文学でも大衆小説でも、論理的でもなく情緒的で、ムードを醸し出していればいいような作品が多いからであろうか。
 推理小説はその点で、論理的とまではいかなくても、構成がきちんとしていないと成り立たない。作者は読者を騙しながら最後の犯人当てまで引っ張っていかなければならず、計算し尽くした作品にしなければなるまい。

 それゆえ、日本語の学習には適しているのではなかろうか。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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