2016年10月26日

頭脳活動を見事にするための条件(2/2)


《2》
 昨日に続けて、南ク継正先生の新著を引用していきたい。昨日紹介した文章にさらに具体例で分からせてくださろうとしている。

     *     *

2 武道空手の上達如何は頭脳活動のあり方によって決まってくる
 以上を踏まえて、まずは以下に引用する「いろは歌」の本歌と同じ文字を異なって使った替え歌をしっかりと、読み比べてほしい。
 この歌は、明治40年(1907年)頃「萬朝報」という新聞が「いろは四十八文字」の替え歌を募集した時のものだそうである。四十八字を重複なく組み合わせ、しかも良い内容の詠み込ませようとの試みは、見事に成功し、募集作品も相当の数に上がったが、その中の一等当選のものを、以下に掲げる。

 当選者は凄い(見事な)ことに埼玉県下の小学校の先生だったという。尤も、この明治四十年頃の小学校の先生というものは、現代の先生と異なって偉大であり、現代の大学教授と同等か、それ以上の実力を把持していたのだ、と思ってほしい。

 いろは本歌
   色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ
   有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず

 いろは代え歌
   鶏鳴く声す 夢醒ませ 見よ明け渡る 東(ヒンガシ)を
   空色映えて 沖の辺に 帆船群れゐる 靄(もや)のうち

 両方の歌を読み比べて見て、諸君は「何」を感じただろうか。もしくは「何か」を感じ取ることができたであろうか。
 どうにも分からない諸君に、ヒントを一つだけ説いておく。いろは本歌もいろは替え歌も、すべて同じ文字を使いながら違った歌になっているということは、当然誰にでも分かる。ヒントとは、同じ文字を用いながら、どうしてこのように違った意味になっていくのであろうか、ということである。

 何故同じ内容ではなく違ったものになってしまったのか、ということである。
 ここまで説かれれば、求められる答は簡単であろう。同じ文字でありながらその同じ文字の用い方が違えば、以上のようになんとも見事に異なった内容になるということである。まずここを分かってほしい。

 これがすなわち冒頭に説いた頭脳の使い方、より正確には頭脳の中身とその頭脳の中身の使い方、用い方、働かせ方という問題なのである。すなわち同じ頭脳の中身であってもその同じ頭脳の中身の使い方がどうであるか、用い方がどうであるか、働かせ方がどうであるかが、いろは本歌といろは替え歌との大きな違いと同様の見事なまでの変わり様のように、アタマが良くなるかどうかが決まっていく、そのようなことで驚く程良くなるのか、それともただのアタマの持ち主で終わるのか、となっていくということである。

 依って若さを持つ諸君は、頭脳・身体・精神、即ちアタマとカラダとココロに関わっての以上の説明をまともに理解することが可能になれば、武道空手の武技と武道空手の武技の使い方に関しても、以上のような、もしかしたら素晴らしい上達を遂げるか、もしかしたら全く上達しないという怖い奈落の底に落ちるのか、となるのである。

     *     *

 すべての仮名を重複させずに使って作られた歌は、誦文(ずもん)とも呼ばれる。七五調の今様の形式(リズム)となっているのもすごい。
 私が引用されているいろは替え歌で感じたことは、この作者の小学校の先生の一般教養の広さと深さ、および文藝に関わっての分厚い素養に圧倒されたことだった。現代詩人みたいに、ただおもしろおかしく言葉遊びをしているのではなく、教養も無尽蔵なら、志も見事というほかなく、また己れの不甲斐なさにも恥じ入るばかりであった。

 「頭脳の中身とその頭脳の中身の使い方、用い方、働かせ方という問題」これが、現今の教育界で等閑視されていることなのである。受験秀才は決められた答え方を覚えて、オウムのようにいかに正しく素早く解答できるかだけを競っている。
 だから例えば、として昨日取り上げたような、秀才ほど「誤解しないでくれ」「勘違いするな」の用い方が平気でできるように落ちる。

 学校では、言葉を覚えれば使い方はあまり指導されなくて、当人任せにしている。アメリカの学校の様子を見ると、教室の机はバラバラで、生徒は足を組んで授業を聞き、教師になんの尊敬もあらわさず、先生と呼ばずに「トム」とか「キャシー」とか名前で呼ぶ。
 これは通じていればいいじゃないか、の考えなのだ。

 「頭脳の中身とその頭脳の中身の使い方、用い方、働かせ方」なんかどうでもいい、が、アメリカ流である。これに戦後の日本は毒された。
 安倍晋三が「日本を取り戻す」と言うのなら、まずは文科省の木っ端役人を総入れ替えして、まともな日本語教育をしなければならないのであって、それがなされずに新しい憲法も何もあったものではないのだ。

 



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
日本語の奥深さこそ、しっかり教えるべきですね。
さらに、漢文をもう一度教えることも大切です。漢文・・・唐詩選なんか・・・孟子も孔子も、すでに本国で死語ですからねえ・・・
Posted by 神戸だいすき at 2016年10月26日 07:16
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