2016年11月10日

鎌倉薪能をより高みに(1/3)


《1》
 10月初めに鎌倉市の鎌倉宮にて「鎌倉薪能」が催され、観に行った。能は能楽堂で何度か観たが、野外で行なわれる薪能は初めて。
 その薪能について書くつもりだが、その前に鎌倉宮について記しておきたい。

 鎌倉宮は、明治2年に偽明治天皇の指示で造られたことになっている。
 祭神は後醍醐天皇の皇子護良(もりなが)親王である。父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現した勲があり、征夷大将軍に任ぜられた。その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて鎌倉に送られて東光寺に幽閉された。建武2年(1335年)の「中先代の乱」が起き、尊氏の弟の直義の命令で殺められ万事休す。

 そして、明治維新となって幕府から天皇中心の国家統治へ復帰したことを言わば祝して(増長して)、いにしえの建武中興に尽力した護良親王の功を賛えるため、明治天皇が護良親王を祀る神社の造営を命じたのである。

 しかしながら、そもそも今から過去をうんぬんしても詮無いことながら、建武の中興はおよそ歴史に逆行し、ナンセンス極まるクーデターであった。もう武家社会になっているのに、平安時代に何もかも戻そうと企んだ愚か者が後醍醐院である。統括能力もないくせに。
 おかげで戦乱に巻き込まれて罪もない人々が亡くなった。
 それへの反省も鎮魂もなく、護良親王たった独りを顕彰し慰霊するとは、歴史への冒涜である。

 足利尊氏のほうが歴史の流れからすればまっとうであった。正統である北朝をよく守ってくれた。江戸時代までそういう認識で、とりたてて尊氏が悪党ではなかった。
 ちょっと脱線すれば、現代になぞらえれば、後醍醐院は財務省の財政健全化派であり、足利尊氏は自由経済で成長戦略重視派であろう。江戸時代でいえば、後醍醐院は新井白石、水野忠邦、松平定信らの財政規律・緊縮財政派で、尊氏は荻原重秀や田沼意次らのような経済成長路線派である。

 天皇親政が理想の政治って、そんなものは後醍醐院の妄想で、平安時代だって天皇親政ではなかった。せいぜい天智・天武の時代の話である。そんなものにすがろうとした薩長ゴロツキテロリストがいかに国家ビジョンがなかったかの証左が、この鎌倉宮であり、護良親王を祀ることだった。

 話を戻すと…。
 維新政府の愚物どもが、護良親王を殺したのが足利尊氏だったとして、一躍尊氏を最大級の悪者、天皇を蔑ろにした逆賊とレッテルを貼られた。武士の風上にも置けないようなゴロツキの楠木正成を、忠臣に祭り上げて、稀代の英雄にさせた。
 あえていえば、江戸時代には荻原重秀や田沼意次は悪者にされて、緊縮財政論者が正しいとされたのと似ている。

 国民に天皇に逆らい、護良親王を殺した尊氏を憎めと宣伝して、教科書で教えこもうとした。
 その一環で、鎌倉宮は建てられ、護良親王が祀られた。イカサマである。

 鎌倉宮には護良親王の墓所と、幽閉された土牢がある。しかし、あの土牢は『太平記』にあった記述をもとに明治維新後に復元したものだから、デタラメもいいところ。
 『太平記』は『平家物語』や『義経記』などと同じく、正式の歴史書ではない。ただの三文小説みたいなものである。
 蒙古の『元朝秘史』も、嘘で固めた物語である。
 こんな類いのものを本当の歴史と思って研究する研究者はバカである。

 いくらなんでも、鎌倉宮のあんな防空壕のできそこないみたいな土牢では、人は三日と生きられるはずがない。
 行ってごらんになればすぐわかる。ただ剥き出しの地面で、布団も敷けない、トイレもない、それでは何カ月も閉じ込めておけない。

 なんで無理矢理そんなイカサマをやって、今も見せ物にしているのか。
 江戸時代の最後、孝明天皇と本物の明治天皇は北朝である。それを明治政府は覆したかったのだ。
 明治政府が南朝正閏説を取り入れて、後醍醐院を祭り上げるために、息子の護良親王を悲劇の人に仕立てたかったのだろう。

 護良親王は確かに非業の死を遂げた人物であるが、後醍醐院にも逆らったのであり、もし明治維新になっていなければ、見向きもされなかっただろう。
 神社に祀るのは英雄の場合(東郷神社や乃木神社)もあるが、菅原道真の天満宮とか靖国神社のように祖霊ないしは怨霊を鎮めるために造る場合もある。

 だから本来の神道流の考えなら、護良親王は御霊=怨霊になりかねない存在である。しかし明治政府が大英雄に仕立てたかった後醍醐院の息子だから、怨霊として扱うことは憚られたのではないか。なんせ皇族だから。
 にもかかわらず、鎌倉宮に護良親王を祀った手前、能の神事はやらないと格好がつかない。

 能のジャンルのなかでも、源氏方の亡霊(祟り神。義経や梶原影季など)が出て来る修羅能(しゅらのう)ではこれまた格好がつかない。護良親王は源氏と敵対した人物だったし、源氏に殺された。
 かといって、平家を鎮魂する能でもおかしい。

 私が観たときは「葵ノ上」という源氏物語を題材にした演目であった。修羅能はやりにくいし、ただの祖霊でもないし…。
それでしょうがなくて、狂女物を選んでいるのかな、と…。宮中の物語だから、宮中の人だった護良親王にはなんとかこじつけられると思ったのか…。裏読みしすぎかもしれないけれど。

 鎌倉宮に行くと誰でもわかると思うが、鳥居を見ればなんとも品がない。魂が入っていないのだ。明治神宮なんかも、そこはかとなく格が落ち、屋根なんかはペラペラのブリキみたいな感じだ。驚くべきは明治神宮の参道にずらり酒樽やぶどう酒樽が並んでいる。
 大昔からある由緒正しい神社はそれを造った人の入魂の作なのである。当時としては最高の文化であるし、大工などにとっては名誉なことであった。

 今風にいえば、国家の高みとしての造営であった。
 だから隅々にまで気持ちが入っている。熊野神社、出雲大社、下鴨神社、天満宮などなど、変だなと思わせる姿形にしていない。
 言いにくいけれど、靖国神社も明治の創建だから、やや落ちる。
 ばかでかい鳥居、大村益次郎の銅像、貧弱な能舞台、裏にある池…などは入魂していない感じを受ける。

 なのに鎌倉宮には、「ま、形ばかりは…」の神社である。単に新しいからではなかろう。造る動機がよこしまだったからだ。ゲスの薩長テロリスト、最下級の教養もない武士がクーデターで無理につくった政府だからだと、この神社からも見てとれる。品のなさは隠しようがない。
 青山繁晴氏が絶賛する京都の霊山観音・霊山神社も、明治になってからのものだから、どことなく品がないではないか。

 もし神しろしめすのなら、やはりそうした不純な動機でつくられた神社は許さないであろうに。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
過去の演目をみると修羅能もありますよ
確かもう58回目くらいでしたか
そんな深い考えもなく人気のある演目を選んでいるだけではないですか
Posted by 向山 at 2016年11月10日 10:30
向山様
失礼しました。そうですね。
能の本質を考えてないでしょうから、適当に選んでいるのでしょう。うるさく言う観客もいないでしょうし。
Posted by 向山様へ(ブログ筆者です) at 2016年11月10日 13:44
能は、室町時代に興ったから京都上方のものだと思っていました。

さては、明治天皇とともに、東方へ?
コ川の世でも、江戸で?

武士のたしなみだから関東でも、大いに盛んだったのでしょうか?

こっちでは、羽衣とか・・・女人の物語が好まれるようです。
Posted by 神戸だいすき at 2016年11月11日 06:51
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