2016年12月12日

「工学」なんてどこにある


 日本には「工学部」がある。「工業大学」もある。誰もが「工学」という名称に疑問を抱いてはいないようだが、私はかねてから、そんなバカな…と思ってきた。
 あんまり引用したくはないのだが、Wikipedia を見ると、「工学」の定義としてまず「エネルギーや自然の利用を通じて便宜を得る技術一般」とある。

 ほらごらんナ、学問じゃなくて「技術」じゃないか。
 さらに、「日本の国立8大学の工学部を中心とした『工学における教育プログラムに関する検討委員会』の文書(1998年)では、次のように定義されている。
 『工学とは数学と自然科学を基礎とし、ときには人文社会科学の知見を用いて、公共の安全、健康、福祉のために有用な事物や快適な環境を構築することを目的とする学問である。』」


 こういう“定義”である。引用した検討委員会の言い分は、メチャクチャである。これで工学部の人たちは納得できるのだろうか? 
 最初に引用した「エネルギーや自然の利用を通じて便宜を得る技術一般」は、正直なところであろう。いささかも「学」ではないと知っている様子だからである。そもそも「工学」と言って「学」の文字を冠するのはおかしいのである。

 「工学」を英語で言うと、Engineeringであるから学問としては認識されていないかに思える。技術を研究するところ、技術を学ぶところ、これである。
 検討委員会でも苦し紛れに「数学と自然科学を基礎とし」と書いていて、数学や自然科学という「学問」を基礎とした「技術研究」と言うべきを、あろうことか、結語に「〜目的とする学問」とやっちゃったのだ。

 最後の文字を見て「ガクッ」とこけない人はいないのだろうか。
 例えば、「オバタリアン」の定義は、として言うなら、「なりふり構わずマナーを無視して公共の場でやりたい放題をする…」と来て、最後の結語が「貴婦人」となっていたら、誰もが「ガクッ」とずっこけるはずだ。貴婦人はないだろうよ、これは皮肉か?と。

 「工学」と自称するからには、それは科学の一分野であるとの認識は学究たちも持っているのだろう。ならば、科学とは何かを、そういったご仁は定義してみたことがあるのだろうか。
 わが流派の教科書である『空手道綱要』には、科学とはを定義して間然するところがない。

 「科学とは、〈事実〉をありのままに見、かかる事実を構成する、かかる事実をつらぬく〈論理〉を導きだしてき、それを本質にまで高めることによって体系化された認識である。それはあくまでも〈事実〉、すなわち客観的な世界が対象的な出発点である。」

 さらに、論理とはも説かれていて、論理とは狭義ではものごとの性質であるけれど、それはありのままに対象を見ることだけでは認識し得るものではない、と。

 「他の事物との比較検討による作業から、対象とする事物の〈共通性〉が見いだされ、そこではじめて〈性質〉すなわち〈論理〉が導かれてくるのである」

 こうしたすでに見事に定律されている概念規定にならえば、「工学」とはなんぞやの答えはわかるであろう。

 話は飛ぶけれど、「工」の文字の字源は、諸説あって、泰斗たる白川静氏は、工作用の台の形から来ているとしている。一方でこれは「巫」(かんなぎ)の字が省略されたとする見解もある。巫も工も、上下2本の横棒は天と地を意味し、縦の棒ないし「人」2つは、天と地を仲立ちする人、或は神に仕える人という意味になる。だから「巫女」がそれに当たる。

 よってEngineeringとは、天と地(自然)の法則を人が利用して役立てる技術といったニュアンスになろうか。あくまで字源であるから、昔の人間の認識で言語化されているものだが。
 この場合の法則が既存の学問である、物理、化学、数学などである。自然科学、社会科学を基礎として、その応用たる技術を学ぶ、研究する、創造するのがEngineering、日本語でいえば「工学」なのである。

 自ずと工学部とか工科大学に行けば、物理、科学、数学、工業の歴史などを広く学ぶことになる。だが、独立的に「工学」なるものはない、もしくはまったく完成されていないのである。
 まして「体系」などどこにもありはしない。だから「工」とは言っても「工学」と称するなど、おこがましいにもほどがある。

 科学は認識であり、論理なのであって、応用たる技術をいうのではない。論理を暮らしのなかに役立てるものを作るにあたって、応用するのである。その限りでは、技術の体系化はなされるとしても、論理の体系化は関係ない。

 例えばジェット機をつくって飛ばすのは、最先端の技術の集積であり体系であるが、その作り方は運用の仕方そのものは科学でも学問でもない。
 本当の完成されるべき「工学」があるとするなら、あくまでもその太古からの技術の歴史の事実から問うて、そこに普遍的に見られる〈性質=論理〉は何かを認識のなかにすくい取ることではなかろうか。

 技術とは、自然の人間化である。それはいったいいかなることかを「工学」はまず問うところから始まるのではないか。自然が人間化すると地球はどうなるか、とか。水車を発明して動力として利用したあたりが、技術のはじめだろうが、それを物理、すなわち物質の理(ことわり)を探る方向ではなく、自然の人間化に絞って論理構造を解くことが「工学」になるのではと思う。

 また技術の成り立ちについていえば、人類にとってまずは道具の発見があったのだ。石ころや木の枝を見つけて、使ううちに道具を作りだした。それと相互浸透する形で、人間の手が道具を使える手に変化したのである。そこから労働が始まる。そもそもはサルの手だったものだから労働の手、道具を使える手ではない。

 ヒトの手から道具を使える手に変化し、その新たにつくり出された手が次々と技術を生んでゆく。これは私たちの手を空手では武器化するための論理構造を説かねばならないから、わが流派では教えられるのだが、それはここでは置いておく。
 これが「工学」の淵源であろう。というようなことぐらいは大学の工学部で教えられなければならぬだろうに。ものづくりのやり方や理屈ばかりやっている。

 例えば、建築技術は、日本でもヨーロッパでも寺院・教会が担った。日本では中世の寺院(比叡山を中心に)が先端の「工学」を行なった。建築、土木、造園、武器製作、工芸品などは寺院がつくり、発展させた。だから自然の人間化という場合の「人間化」を宗教が進めた面も取り上げなければならない。
 そんなことは「工学」とは関係ないとでもいうのだろうか。

 医学の論理構造は、瀬江千史先生が措定している。学問誌『学城』などで見たことがある人もいるだろうが、三角形を描き下半分が(土台が)「常態論」である。三角形の上半分をさらに左右に2分し、片方が「病態論」残りが「治療論」である。
 この中の「治療論」をさらに区分けすると「現象論」「構造論」そして一番上位に「一般論(本質論9)位置する。

 「工学」も「学」と言いたいのならこういった構造で解かれるべきであろう。

 だが、現実にどこの国でも、産学協同でしか大学は生き延びられないのであって、新しい技術の開発を担える実力を学生に身につけさせることが目的になるか、研究所でまさに新技術を研究することにしか向かわない。

 似たようなことは、ほかにもある。社会科学では「法学」がそうであって、これもまた人類の太古からの「掟=法」の論理を学び、学として体系化するのではなく「法律」の研究をするばかりなのが、大学法学部である。おそらく誰も「法」と「法律」の区別と連関が解けないであろう。
 医学でもそうで、「医学」と「医療」の区別と連関が混沌としたままである。

 つまり工学部、医学部、法学部なんかは、中身は「専門学校」でしかないのに、大学では専門学校より試験をむずかしくし、学部ではより難しいことをやって箔をつけているだけの話である。それが役に立たないなどとは言っていない。レベルが違うと言っているのである。

 現状を見れば、国家の要請としてそういった専門家の要請を前提にするなら、多くの大学や専門学校のままでよしとしても、ごく少数の超エリートを選りすぐって、工業化や産業化、じかに社会の役にたつ人材ではなしに、あるいは研究者ではなしに、学問の構築を目指す「最高学府」をこそ日本は創るべきなのである。

 いうまでもないが、それを成し遂げつつある「最高学府」は、南ク継正先生の主宰する「日本弁証法論理学研究会」しかない(!)のである。
 本来なら、世界の文化をもリードすべく日本こそが、東京大学や京都大学などに限って、最高学府にならねばならないのである。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
誤:客観的な世界が対象的は出発点である。

正:客観的な世界が対象的な出発点である。
Posted by 間違い探し at 2016年12月12日 12:34
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