2016年12月17日

成功できない子、成功する子を分けるもの(2/2)


《2》
 昨日の冒頭の話に戻れば、プロスポーツの世界に飛び込んだ新人の多くがもらす最初の感想は、異口同音に「プロに憧れて入ってみたが、こんなに高いレベルとは思わなかった、自分はついていけるのだろうか」「今までの学校や地域では俺が一番だと自信があったが、まず鼻をへし折られた気がする」「自分なんかやっていけるのだろうか」「才能がないかも」と言ったことである。

 これは正直なところだろう。誰もがここで一度はショックを受ける。「ん?」というわずかな認識のズレが生じる。
 そこから立ち直って、なにくそと練習に励めば自分も一流プロへの道がひらけるだろうが、私は案外、成功するか挫折するかの剣が峰は、この最初の一撃(認識のちょっとしたズレ)が大きいのではないかと思う。

 最初にビビってしまえば、その認識と脳細胞で練習に挑むことになるからだ。そう言う初心者の像は、「ダメだったらどうしよう」「ああやっぱりダメか…」という像が、やる前からできている。
 野球であれば甲子園にまで行ったような子は、本人的にも周囲も自信満々だからこそ、プロに入って「ん?」となったときが怖い。

 指導者は、ここの最初の新人のショックを重大なものと捉えない。たいした事じゃない、誰もが思って当たり前、で済ませる。お前等はスカウトがちゃんと見込んでプロになれると保障しているんだから、言われたとおり頑張ればいいんだ、となる。俺も最初はそうだたんだ、と。これだから、プロ野球の2軍は金のタマゴたちの死屍累々となっている。

 指導者もたいていは、成功するかどうかは才能次第としか考えてないから、その新人には才能が埋もれているかどうか、埋もれているなら指導して発掘してやればよく、成長しないのは才能がないからだ、としてしまう。
 失敗すると、スカウトの見る目がなかったんだと言うことにする。

 わが流派の場合、指導者は新人(入門者)に最も気を遣う。どういうふうに導入してやるか、そこが大変なのだ。
 技や、カラダの動かし方の見本を新人に見せるわけだが、あまり高段者のすごい技は見せてはならない。新人よりちょっと上手な者(初級者)にやってみせさせる。すると新人は「あれなら俺にも出来そうだ」と前向きになれる。

 いきなり高度な技を見せると、萎縮したり自信をなくしたりするものだ。まずは「俺にも出来そう」と思われることが肝心である。
 海水浴デビューの赤ん坊も同じであって、親が海にちょっと入って戯れてやり、赤ん坊ながらに楽しそうだ、出来そうだ、と興味を持たせることが重要なのである。
 
 その意味で、我々の流派では、新人の指導は原則として指導者(道場主)自らが行ない、半端な上級者には任せないようにする。半端な上級者では、つい「どうだ先輩の俺の技はすごいだろう」と見せてしまいたがる。あるいは自分がどういう過程を経て上達したかを忘れて、新人に対して「こんな簡単なことがどうしてできない?」という態度を取る。

 上級者ならなんでも指導ができる、任せられる、というわけがない。
 同じことが、例えば試合に出て負けて帰って来た選手に対しても当てはまる。指導者が殴ったり、なんでいわれたとおりやらないんだ、バカなどと罵ることは最悪の指導である。
 どういうフォローをするかがすこぶる大事である。
 プロスポーツの世界では、そんな選手には、すこぶる冷たかろう。プロなんだから自分で考えろ、で突き放してしまうのではないだろうか。

 プロの世界は厳しいだろうけれど、最初の導入を疎かにしている指導者、コーチが多いのではないだろうか。最初につまずかせたり、失敗したりしたときにそれを生かせないままだから、成功しないで辞めていく。

 指導者は被指導者(弟子)を突き放して、這い上がってくれば根性がある奴となろうが、これもまた、怒鳴られても突き放されてもくいついてくる被指導者は、それなりに、そうなるべく根性が、闘争心が養われていなければならないのだ。
 学校教育はまさに「アタマ」の学びだけでなく「ココロ」の学びも合わせて行なわなければならない理由がここにある。

 教師なればこそ、本来は日常のなかで、学業以上にそういったへこたれない根性、負けじ魂、といった認識をしっかり育んでいかなければいけない。なのにしょっちゅうテストをやって児童生徒を締め上げ、怯えさせて頑張らせるばかり。
 だからちょっといじめられるとイジケる子ばかりになる。あるいは不貞腐れてグレていく。

 学校時代を思い返してみると、英語とか数学とかで、単元や章が変わって新しいレベルに上がるときに、意外に緊張感があった。急に難しくなるような気がするものである。例えば跳び箱なんかでは、5段が楽に跳べていたのに6段になるととたんに自信をなくして、むずかしくなって跳べなくなることがあるではないか。ほんのわずかに高くなっただけなのだから、跳べるだろうと教えるほうは思うが、当人にしてみるとこれは認識が邪魔しているのである。
 再三言うように、わずかな「ん?」という認識のズレなのである。

 そんなことが英語や数学ではしょっちゅうある。この切り替わりのときに、教師は失敗するのではないか。英語でいえば、中学1年生で、現在形で授業をやっていたものが、過去形の文章を扱う単元になり、ちょっと難しくなったなと思っているところへ「過去完了」の単元になると、いきなりハードルが高くなった気がしてビビるのだ。

 ここでも認識の「ん?」というズレが起きる。テストで赤点を取った像、母親に叱られる像、ぶざまな自分!という像ができあがっていく。
 数学でも何でも、1章から2章に行くときは難しくなった、2章から3章になったときはもうダメだと思った、そして4章にいたって「やっぱり俺は…」になった、と、こうなる。
 これで多くの子供が挫折し、やる気をなくし、おれはどうせダメだの像ができていく。そして落ちこぼれる。

 はじめに生じる「ん?」という認識のズレを軽んじたがために、ついに…になっていく。生徒自身が壁をつくっていく過程である。
 こういうときの、対処法、乗り越え方、自信の付け方、などには教師はまったくの無頓着である。今の教師は、「子供の個性」としてしまうから、教育論も指導論もできていない。

 生徒にどんな「ん?」という認識のズレが生じるか、どんな壁を認識に築いてしまうか、それは自分がどういう働きかけをした結果なのかを教師は反省しなければなるまい。
 プロ野球のコーチも同じことだろう。指導者がこういう技を身につけろという像と、選手が描く像を一致させなければいけないところを、闇雲にしごくだけであったりする。

 最近の教科書は見たことないけれど、昔とそう変わってはいまい。教科書というかカリキュラムは、上から降ろしてくるものだ。最終的に大学を出て社会人になるときはこれだけの量の知識を持つようにという頂上が決まっていて、そこから高校までにはこれだけ、中学までにはこれだけと、割り振っている。
 だから、高校なら高校3年間の時間で割って、1単元、2単元…と区切るだけ。それを一定時間内に納めようとする。
 生徒は一度で分かる子もいれば、2回やらないと分からない子もいるし、5回言われないとわからない子がいるのに、そんなことはお構いなし。

 これで落ちこぼれを出すなというほうがムチャである。
 教師は生徒が描いている像を、自分も描いてみなければいけないのに、それ行け、やれ行け、これをやらなきゃ受験に失敗するぞと煽るのみ。
 安倍首相も「一億総活躍社会」を目指すのなら、教育の課題にも目を向けるべきであるが…。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「一億総活躍社会」を目指すのなら、無職の人を徴兵すれば済む話ですね。
国民の自由に職業を選ぶ権利を剥奪すれば良いわけです。
社会主義の基本です。
Posted by たていと at 2016年12月18日 21:39
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