2016年12月23日

寺社はフィナンシャル・グループだった(2/3)


《2》
 では歴史を尋ねてみよう。
 平安、鎌倉、室町…と続いてきたことだが、とりわけ顕著になったのは、戦国時代である。信長が比叡山や石山本願寺と戦争をやったことがその典型であるが、寺社は当時強大な勢力であった。
 官許歴史教科書では、比叡山や本願寺が巨大な勢力で、信長の政治に対立したから紛争になったとしか言わない。寺社がどのようなものだったかはタブー視されている。

 だからなぜ比叡山や本願寺が徹底して破壊されたか、わけがわからず、信長って乱暴な人、宗教迫害だったとの印象しか与えない。教科書ではそういう教え方をする。
 しかし、その寺社勢力の内実を知れば、信長ならずとも焼き討ちしたくなるし、信長に感謝せずにはいられまい。

 往時の寺社勢力は、国家の政治経済(社会)の中枢に位置していた。財閥勢力であり、治外法権を把持する特権階級だった。なぜなら、寺社は莫大な財とそれを維持するための武力を持っていたからである。
 いまでもバチカン市国は、その財政が闇のなかで、マフィアともつながり、巨大な金融組織となっている。同じようなものだったろう。

 室町時代から戦国時代にかけて、日本の資産の大半は寺社が所有していた。当時は八大財閥があって、自治都市の堺と大山崎、それに細川高国、大内義興、あとは寺社が4つ。しかもその4つのうち3つが比叡山関連だった。
 最大の寺社は比叡山延暦寺であったが、ほかにも東大寺、興福寺、高野山、青蓮院(しょうれんいん)、多武峰(とうのみね)、金峯山(きんぶさん)、南禅寺などがあった。
 全国に多数の荘園をもっていた。比叡山の荘園数は285か所。信長の焼き討ちで台帳はかなり焼失していて、これしか把握できていないが、実際にはもっとあったはずである。

 比叡山は荘園の農地だけでなく、京都の繁華街にも3ヘクタールもの領地を持っていた。あの悪辣無比の後醍醐院が所有していた領地より広かったそうだ。地代で儲けていたのだろう。
 現在の奈良県では、興福寺など寺社が所有してない土地はなかった。したがって室町幕府も代官を置くことができなかった。
 
 ではどうして寺社が莫大な財力を持つに至ったか。昨日、触れておいたが、寺社は農地や金銭などの寄進を受け、それが荘園となっていった。寺社がそれほど寄進を受けていたのは、当時の上層階級の人々にとって「寺社に寄進すれば救われる」と考えていたからだ。 
 そして寺社は余ったカネで貸金業も始めた。

 荘園からとれる米、寄進される米は、寺だけでは食いきれないから、余った米を高利息で貸した。これを「出拳(すいこ)」と言う。国家の事業だったが、私的に神社や寺院が行なうのを「私出挙」と呼ぶ。
 この習慣は世界各地に見られるもので、太古からの農業社会では、領主などが小作農に対して播種期に種子を貸与し、秋の収穫期に利子を付けて返済させる慣行が生まれた。利子の起源であろう。
 やがてそれは米からカネに代わっていった。
 
 現代で言うシニョリッジ、すなわち国家が紙幣を刷って市中に流すのも、その発展形態か。紙幣を刷る原価が仮に1枚1円であっても、市中ではそれが1万円として流通させることができ、その差額が国家の資金となる。

 ユダヤ人はアメリカに寄生してFRBを押さえ、ドルを無尽蔵に世界中にバラまくことで、莫大なシニョリッジを得ているわけで、ユダヤにとって、アメリカのドルを基軸通貨から外すことだけは絶対に許さない。そして、アメリカに逆らう国は、戦争でアメリカの青年の血を流させてつぶすのである。

 話がそれたが、戦国時代は室町幕府が弱体化し、各地に戦国大名が出来して経済的統制が取れなくなったことが背景になって、比叡山延暦寺は日本最大の金貸し業者にのしあがった。幕府がだらしなく、機能していないのだから、法治ができず、それをいいことに比叡山などの寺社は悪辣な営業形態をとった。
 高利で貸して、延滞すれば容赦なく僧兵を差し向けて取り立てにかかる。

 比叡山と日吉大社の標準的利息は、年利48〜72%だったというから、現代の闇金でも真っ青である。人の弱みに付け込んで、ここかで阿漕をやったか。
 武装取り立て人は、公家だろうが百姓だろうが容赦なく家に押し入って強硬手段に訴えた。

 義経の従僕となった弁慶は僧兵だったから、要するに借金取り立て人だった。
 借金が払えなくなったものは、田畑を売り渡したし、娘は売られたであろうし、それで賤民に落ちていった者もいたのではなかろうか。

 奇怪なことに、比叡山にある日吉大社は延暦寺の守護神社である。滋賀県大津市坂本にあり、全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称、山王権現とも呼ばれる。古事記のころからあった神社で、「私出挙」をやっていた。
 日吉は、今では「ひよし」と呼ぶことに統一されているが、昔は「ひえ」と読んだ。つまり「日吉=ひえ」は比叡山=「ひえの山」なのである。両者は表裏一体で、カネ稼ぎを行なっていた。

 比叡山は、平安遷都以後に最澄が天台宗を興して延暦寺を建てたことになっているけれど、最澄は「日吉の山」にあえて広大な寺をつくったのも、日吉大社の金銭力を当て込んだのかもしれない。
 こういうことは、官許歴史教科書では教えないし、現今の観光案内にも記されない。多くの人は知らないまま。

 日吉大社が全国に2000もあったことからわかるように、手広く金貸し業を行なっていた。全国に「神人(じんにん)」を派遣しては、公卿から物売り女に至る階層に、日吉大社の米を借りませんかとセールスして歩く者である。古代では稲だったものが中世にはカネを貸すようになった。貨幣経済になったからである。

 こんなおいしい商売を他の寺社も手をこまねいて見ているだけのはずがなく、比叡山にならって猖獗を極めたのである。やがて寺社同士で利権争いが起き、騒動に発展したこともあった。

 その利権の一つが、「市」である。昔は常設の店舗を構えて売買がなされなくて、定期的に開かれる「市」が商業の中心だった。そこに寺社は大きな影響力を持った。土地を貸すこともそうだし、市の開催権も寺社が握っていた。
 今でも祭りのときに、神社仏閣の境内で出店があるのはその名残りで、昔から寺社の縁日に市が開かれたのだ。

 出店するほうも、寺社境内の中なら、無法に強奪される心配もなく、定期的に商売ができるのだから、安心である。ショバ代を払ってもいいとなる。
 博打場も開かれたし、庶民に大麻を吸わせていい気分にさせて信仰に引き込むこともあったようだ。
 だから寺社は金貸業だけでなく、商品流通も支配するようになっていった。

 「座」は寺社が幕府に働きかけて独占販売権を得たり、気に入らない業者を締め出すために創られた。当時の生活必需品であった、酒、麹、絹、油はみんな寺社の手の内で流通した。
 京都の南禅寺は豆腐料理で有名だが、南禅寺は油のシェアを握っていた。油は大豆を絞るわけだから、大豆から豆腐をつくって売ったものであろうか。

 それが中世である。
 それをブチ壊した男が織田信長だったのである。楽市楽座とは、寺社に独占的に仕切られた閉鎖された商業を解放することだった。
 これは勝手な想像だけれど、イスラム世界では教徒になることで、商品流通に参加でき、有利になることから信者が増えていったのだ。今もそうだろう。
 
 すなわち、イスラムはいまだに中世までの日本のように、宗教が商売やなんやらの利権を握っているのであろう。たとえば、イスラムは1日に何度もメッカに向かって遥拝するし、断食月がある。これに参加しない変わり者は、あの世界では商売できない(生きていけない)。その利権をイスラムの僧侶が握る。
 それでは貧しいままじゃないかと、「近代化」=「脱イスラム」を計ったのは、トルコのアタチュルクやイラクのフセインだったのであろう。

 世界中どこでも、宗教とは要するにカネである。宗教はまた利権である。世俗にまみれるしかない。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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