2017年01月10日

政治はしょせん束の間の「結果」にすぎず(2/2)


《2》
 国家や世界史の大きくてダイナミックな像ができている政治家も大学教授も評論家もいないらしい。みんな政治評論はやれるのだが。
 これを理解していただくのはとても難しい。
 そこでこれはあまりに畑違いで適当かどうかわからないし、またかと言われそうだが、元ジャイアンツの桑田真澄氏の本から引用してみたい。この話にいくらか近いかと思われるので。

 「結果さえ出せば文句を言われることもないと、どんな人に聞いてもそう言う。それは僕もわかる。何が大事かというと確かに一番に結果だ。みんなそこで終わりだけれど、僕はその上にもうひとつあると思う。それがプロセスだ。
 いかに目標を持って、それに向かって頑張っていくかというプロセス。結果の上にプロセスがあるというのが、僕の信念なのだ。だから試合に負けても全然不安ではない。自分のピッチングができていれば気分もいい。」

 「目標を立てて、そこに向かって努力して行くという生き方が、僕は好きです。でもその目標が達成したから偉いわけでも、達成できなかったから駄目なのでもない。大事なことは、目標を立てて、全力で努力して行くプロセスだと思うのです。それが『桑田真澄という生き方』です。ベストを尽くし、頑張っている自分が好きなのです」

 「野球は正味六か月ほどのシーズンだけれど、簡単なようでいて、コンディションの維持は難しいものだ。移動する、気候も違う、食べ物も変わる、いろいろなファクターがある」


 これらは桑田氏の『試練が人を磨く』(扶桑社文庫)から拾ったものだ。彼個人の思い(生きざま)を語っているし、「プロセス」という言葉はしっくりは来ないが、およそのニュアンスはわかる。
 つまり、桑田氏のいう野球の勝負の「結果」は、政治の結果、あるいは戦争の勝敗と読み替えてほしい。
 政治評論のレベルでは、要は「結果」を云々するばかりなのだ。

 しかし政治の結果は大事だけれど、と桑田は言っているようなものだ。その上にもっと大事なもの、広いもの、大きなものがあるじゃないかというのである。彼はそれを野球でいえば、上達しようとした努力過程とか、チームワークとか、みんなで地域の掃除をしたこととか、相手チームへの敬意やフェアなありようとか、上下関係の厳しさとか、監督からの指導や後輩への指導とかで得たものとか、それはただの勝ち負けより大事なものがあるのである。

 そうしたありようを譬えて、私は、政治的結果だけでなく、社会の実存、国家のありよう、それであると言っている。
 ところが民進党などは、選挙で勝つことや、そのために自民党と政府に失点させるという「結果」しか求めていないではないか。たしかに現今の政治の世界では、そんな小さなことが大事で、「結果」だけが求められる。票にならないことは代議士どもはみんな関心がないというテイタラクだ。

 日本史を振り返ってみれば容易くわかることだ。源氏が勝ったの、信長が負けたの、徳川幕府が勝ったの、倒されたのと、「結果」は教科書にも羅列してあるし、それはその都度、重要なことではあったが、今日のわたしたち社会にとっては、そんな「結果」はすべてじゃなかったと分かるだろうに。
 例えばそんな政治的結果よりも、大和魂やら、感情の豊かさやら、勤勉さやら、誇りやら、さまざまなファクターの集合に核心があるのではないか。

 先月、ロシアのプーチン大統領が来日して、日露首脳会談が持たれた。北方四島が返還されるかどうかがマスゴミや評論家の話題になり、安倍首相の対露外交は失敗だったぞと騒がれたけれど、まさにそんな「結果」にばかり目を向けるしかない、ケツの穴の小さな連中ばかりであった。

 安倍首相が、これからの日露関係は全く新しい発想で、新しい国家関係、経済活動をお互いに考えていこうではないかと提案しているのだから、「そんなのはダメだ「なにか裏取引がある」「プーチンにいいようにあしらわれている」などと、これまで古い価値観で足を引っ張ろうとするばかり。

 安倍首相の発想を批判するのも構わないが、一方ででは安倍首相の発案をもと素晴らしい、これまでの世界史をひっくり返すような斬新な関係とは何かを、安倍の提案をもっと凌駕するほどのアイデアを出してどうか。
 たとえば、暮れの日露会談で合意に達した関係を、実現してロシアにも大きなメリットがあると分かってもらったら、逆にロシアから千島全島や樺太全島までも返還する、日本領にぜひしてくれと言ってくるようになるかもしれないではないか。

 戦争で奪われたものは戦争によってしか取り返せないと言われたものだが、それはこれまで国家関係では、という話であって、戦争しないで取り返すばかりでなく、さらに良好な日露関係を創るには、と考え議論するほうがいいではないか。ロシアに甘い顔をするなとは、今は正しい意見ではあるが、人類史という観点で考えて、いつまでもそれでいがみ合うことだけが正しいのか、である。

 国会ではまさにそういう議論を自由闊達にやればいい。ところがくだらない言葉狩りばっかり。政治はことごとく矮小化し、それが国会だとみんな思い込んでいる。

 冒頭に取り上げた友人のメールでは「議論らしい議論がない」と国会やマスゴミのありように批判的であった。それはそのとおりだが、その議論がただ政治だけにとどまっている、あるいは自分の国のことしか考えない政治の議論は、この21世紀にはいかがなものであろうか? そういう問題提起をしてみた。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
誤:みんな地域の掃除をしたこととか
正:みんなで地域の掃除をしたこととか
Posted by 間違い探し at 2017年01月10日 15:19
いつもありがとうございます。
Posted by 間違いさがしの件 at 2017年01月10日 15:41
政府官僚が自分に都合の良い法案を出してそれを国会で議論してるのだから、議員に目標が無くなるのも仕方の無いことでしょう。
そして例えば戦争関連が視野に入ると、防衛指揮関連の責任を政府から国会議員に転嫁するなどそんな法案まで採決してしまう。
政府が議員の給料を掌握してる以上、政府の手のひらの上で完全に踊らされることが解っていながら辞められない。それが国会議員なのですね。
Posted by たていと at 2017年01月11日 05:00
北方四島のことは、ロシアの面子を立てつつ、実質を取っていくしかないですね。

けど、あんな賢いこと、安倍さんに提案できるのですか?だれでしょうね?黒幕は?

世耕?

キッシンジャー?不思議です。
Posted by 神戸だいすき at 2017年01月11日 16:06
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