2017年01月16日

英語で「知」が劣化(1/2)


《1》
 日下公人氏の新著『新しい日本人が日本と世界を変える』(PHP刊)を読んでいて、憲法の問題が記述してあった。これまで言われてきたこと以上のことを説いてあったので、紹介していきたい。
 「日本人が英語を主体に考えると『知』が劣化する」という節からである。

     *     *

 日本人の大きな特質がその融通無碍なところにあるとすれば、憲法を成文化するに当たっての言葉の問題についても指摘しておこう。
 日本国憲法が事実上、GHQによる草案(英文)を邦訳したものである以上、そこに並んでいる言葉は日本人の精神やこころを反映していない。日本人はいかなる価値観を持ち、日本はどのような国家として歩んでいくかを示す意味から憲法を考えた場合、対外的な問題を意識した「説明しやすさ」は不要である。

 まず、日本人同士に「説明しやすさ」は要らない。日本語で率直に語れば通じるもののはずである。英文や漢文を意識するから、逆に彼らの価値観に引き込まれて自らを失う。
 安倍首相は、日本を「美しい国」にしたいと語ったが、憲法の前文に我が国のあるべき姿を記すとき、私なら「やすらぎの国」とか「思いやりの国」といった言葉を入れる。あるいは「潔い国」と。

 英語圏で理解されるかどうかなどということは考慮する必要はない。日本が成文憲法を持つならば「日本語の力」というものを意識する必要がある。
 私の経験から言えば、日本人が英語を主体にモノを考えはじめると「知」が劣化する。これは日本語にあって英語にない単語やニュアンスがたくさんあるからかもしれない。

 アメリカ人を相手に講演するとき、通訳付きでも話がなかなか伝わらなくてくたびれるのは、根本的に文明や文化、思想が違うからである。そのなかでアメリカ人にわかることだけを伝えようとして、彼らの言葉で考えると、ものすごく程度が下がってしまう。
 (引用終わり)

     *     *

 例えば、として日下氏は日本語の「潔い」は英語にない(ならない)と言う。Nobleでもgracefulでもなく、強いていえばManly という古い言葉が近いのだと渡部昇一氏が教えてくれたそうだ。
 これでは「男らしい」程度になっちゃうだろうに。つまり米語にはないが、古いヨーロッパには潔いの感覚が多少はあるのだろう。

 もしも憲法前文に「潔い国」と書き込むとしたら、きっと害務官僚からは異議が出る。外国人に意味が伝わらない、だからNobleとかgracefulに相当する日本語にするべきだ。高貴な、とか、優雅なとかに換えることになる。「潔い国」の意味ではなくなってしまう。

 「英語圏で理解されるかどうかなどということは考慮する必要はない」「『日本語の力』というものを意識する必要がある」。この一文には目が覚める思いだった。かくいう私も、どこかしら欧米コンプレックスがあって、世界の人たちに日本の特殊性をわかってもらう努力が必要だろうと思っていたからだ。

 和歌俳句、能、武道などは理解してもらえまいが…理解しあうことが大事であろう、くらいの感覚だった。しかし、文化の歴史が違うのだから、欧米や支那やらが日本をわかることはできない相談なのだ。
 文科省は、小学校5年生から英語を必修課目にすると言っているが、とんでもないことである。中学からで十分だ。

 英語は読み書きできるようになっても、日本人として大きな欠陥を持つようになる。日下氏が言うとおり「知」が劣化するからだ。
 たとえば柔道は、スポーツ化されてオリンピック種目になってから、武道ではなくなった。あれは見事に世界の標準に合わせた競技の枠に入れようとしたからだった。世界柔道連盟では今後、「有効」は止めようと言い出している。奴らはどうしても白黒二分にしたいのだ。

 「潔い」にしても、これは対象たる社会のありようが、曖昧にも関わらず、どうしても白黒つけないとうまく人間関係、社会関係が立ち行かないと見てとって、いわば弁証法性を断って、形而上学的答えに決める、その過程を日本人は意識するゆえに、やむを得ず「潔い」という行動を決断するのだ。
 さらに日下氏の論考を引用する。

     *     *

 アメリカはまだ二百四十年しか歴史がないから、敗者は敗者、退場するだけであって、それを飾る言葉がない。言葉がないということは概念がないということである。
 ただでさえ英語による思考は二分法になりやすい。白か黒かである。もともと契約のために発達した言語だから仕方がないが、対象となる社会現象や自然現象は、たいていアナログである。

 アナログをデジタルで表現すると、グレーゾーンを切り捨てることになる。洋裁で言えば、布地の裁ち屑がたくさん出るようなもので、日本語はその裁ち屑を掬い上げる微妙なニュアンスが豊富である。
 日本人の憲法を成文化するなら、きちんと日本語で考えられ、日本語で書かれるべきだと思う。それでは世界に説明できない、理解されないというのは、他者に寄り添うことが習い性となっている証左である。彼らに考えさせればよい。

 日本に関心を持ち、日本と付き合いたいと思えば、彼らのほうが勝手に学ぶ。大事なことは、彼らがそう思うような力のある日本、魅力ある日本であり続けることではないか。
 実は、日本は大日本帝国憲法を制定した明治時代から、自らの生存と独立のため日本の特質を削り取るという自己矛盾の世界に生きてきた、言葉も、概念も、自らを守るために自らを削り、他者のそれを取り込むということをやってきたのである。

 「文明開化」と呼ばれたものが、それである。日本の近代化は、その過程だった。
 憲法もまたその例外ではなく、明治憲法の制定に当たって、それ以前の日本の伝統を汲む努力がなされたことはたしかだが、それでも成文憲法を持ち、西欧型の近代国家に並ぶということが、いつしか生存と独立の手段としてではなく、目的化し、さらには外国に合わせることを自慢するような日本人まで出てくるようになった。
 (引用おわり)

     *     *

 これは非常に端的に日本人の近代化の宿痾を言い当てている。
 日下氏は残念ながら弁証法を学んでおられないようで、「英語による思考は二分法になりやすい。白か黒かである」とか、対象となる社会現象や自然現象はアナログなのに、それをデジタルで表現すると、グレーゾーンを切り捨てることになる、などと説くが、それが「形而上学的」であって、日下氏の言いたい「二分法でないもの」「対象がアナログだからアナログで考える(表現する)」が日下流に言うなら弁証法的なのである。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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