2017年01月17日

英語で「知」が劣化(2/2)


《2》
 先週の本ブログで、元巨人の桑田投手の言葉を紹介したが、野球もさすがにアメリカ発祥だけあって、勝つか負けるか、アウトかセーフかの二分法のゲームである。結果だけを求める。桑田は勝つか負けるかの「結果」だけが野球でも、また人生でもないと説くのだった。

 現実の野球は、アウト・セーフ同時もあれば、引き分けもあるし、審判の誤審もある、外野フライが風に流されてホームランになるなど、曖昧なものだ。それでもアメリカ式野球は二分法で決着させる。
 審判が絶対で、ビデオで見ても明らかな誤審であっても、判定は覆さないというやり方は、日本人には納得しがたいが、アメリカ人はそうしないではいられない。
 日本の相撲では行司が判定しても、あとで審判が協議しているのは、アメリカ人には理解できないのではないか。

 日本の相撲も勝ち負けを競ってはいるが、「同体とみて取り直し」「不戦勝」、優勝でないが殊勲賞や敢闘賞もあれば、勝ち越せば「給金直し」とも言われるなど勝負につきものの曖昧さ、アナログ性を配慮している。さらには仕切り、塩撒き、勝ち名乗りなど、勝負の「結果」以外に見所がたくさんあるものになっている。

 それゆえ、相撲は結果だけではないことが外国人力士にはどうしても理解できない。白鵬や日馬富士などのモンゴル勢は、横綱が相手に張り手をだすのは美しくないとか塩の撒き方にも美がある、なんてことがわからない。「これは決まりだ」と教えれば実践する。

 聖徳太子の「十七条憲法」でも明治維新の「五か条のご誓文」でも、あれは弁証法的である。「和をもって尊しとなす」や「万機公論に決すべし」である。神のことばが絶対だとか、国王の命令が絶対だとは言わない。
 
 これをとりわけ戦後は、日本語はあいまいで非科学的だ、英語は論理的で答えをしっかり出すから優れているとする風潮があった。たしかに白か黒かだけの答えを求めるならば、英語は便利かもしれない。学的研究者のなかには考える際には英語で考えるといい、論理的言語だから、と学生に勧める奴もいた。それは誤りである。

 受験秀才はそうなる。正答か誤答か、白か黒かには分けやすいのだろう。その結果だけを求めることにアタマが量質転化してしまう。
 あの連中はとりわけ英語が得意である。
 見事に官僚がそういう発想になり、大学教授もそうなる。わざわざ国費にたかってアメリカに留学して、あちらの思考になじんで帰ってくる。

 で、「知」が劣化するのだ。本来的には日本語こそ対象の曖昧さや流動性やらに見合った概念や言葉が創られているから、論理的なのである。アメリカになじめる連中だから、GHQの押し付け憲法も、日本語になっていない憲法も平気でいられるバカになる。

 南ク継正先生の著作は、英語に翻訳できないそうだ。学問誌『学城』では発刊初期に『武道の理論』の英訳が試みられていたが、2〜3回ほどで立ち消えになった。やはり無理だったのかと思う。「潔い」のような言葉が翻訳できないといった事例もあるのだろうが、つまり、南ク先生の文章はすべてにわたって弁証法であり、かつそれに見合った日本語で書かれているからである。

 外国人で南ク継正先生の著作や南ク学派の学問書が理解できるようになるためには、日本語をしっかり学んでもらうしかない。やがてそうなるだろう、日本が存続するかぎりは。
 
 一方で支那も言語が、白か黒かであって、「ニュアンス」が表現できない欠陥言語である。日本語は「私は酒を飲む」と言う場合、「私も」「私が」「私でも」「私には…」など助詞によって、曖昧さを表現できるのに、支那語では「私 飲む 酒」という単語をある規則によって並べるだけ。だからニュアンスがない。
 で、国際政治では居丈高になるか、しょげるか(逃げるか)で結論を出したがる。

 もうすこし、日下氏の本のつづきを紹介する。
     *     *

 日本国憲法は、戦前と戦後の歴史の紐帯(ちゅうたい)を断ち切られている。米国に次ぐ「民主主義の実験国」を建設することを日本国民に強いたものと言える。 
 いささか極端に聴こえるかもしれないが、その本質を「言葉」から見れば、日本語ではなく英語でモノを考える日本人をつくることである。

 七十余年を経て、それは「世界標準」とか「グローバル・スタンダード」といった言葉で日本人に浸透し、アメリカ主導の価値観を普遍性と見なし、それは日本という国が従属していくことを求められる過程を示している。

 同時にそれは、日本が本来持っていた独自性や可能性を今後も自ら制約し、未来を閉じることにもなりかねない。憲法改正論議は必要だが、ともすれば日本の特質や独立の視点を置き忘れ、ただ単に英米と同じような民主主義国家になるべきだという方向に傾きがちなことに、私は異なった視点を示しておきたい。

 (中略)
 普遍主義の亡者になってはいけないということである。気概を持ったローカリズムでよい。
 そして一国の憲法とは、普遍的な地球人類の理想を追求するものである必要はなく、そこに暮らす人間のローカリズムに根ざした価値観、歴史的な慣習や常識に照らしてつくればよい。そこに立ち返ったとき、日本は自らを守る力を持つと同時に、もっと自由で豊かな国になれると私は思っている。
  (引用終わり)

     *     *

 媚中・副島隆彦は、慰安婦問題にしろ南京大虐殺にしろ、それがあったかどうかじゃなく、世界標準に従えばよいのだとほざくアホである。欧米と支那が白だといえば、それに文句を言わずに従えばよいと主張する。
 正義も誇りもいらぬ、先祖の名誉もいらぬ、ただ日本が世界に孤立しないよう、世界、とりわけ欧米と支那の言うことに従っていろというのだ。

 それがグローバル・スタンダードだと。あの男も、英語をもっぱら得意とする物書きだった。だからなのだろう。日本人の心がわからない。だから弁証法も無視できる。

 アメリカではトランプが大統領になって、グローバリズムは後退し、アメリカのナショナリズムや独自性を大事にする流れになるのでは…と予想する向きがある。そうかもしれない。当分は様子見だ。
 世界的思潮として、グローバル・スタンダードが退潮していくとすれば、まことに望ましい傾向である。
 憲法だって、対外関係を意識せずに成文化できるだろう。

 世界史の流れで言えば、これまでの世界の覇者は、ローマ帝国から始まってイギリス、アメリカにいたるまで、彼らの言語もその像も、白か黒かの二分法を元にやってきているが、それでは解けない問題があったり、問題を起こしたりしてきたのではないだろうか。
 だからその行き詰まりを感じて、彼ら自身が弁証法を考えたり、ファジーと言い出したり、“東洋の神秘”に惹かれたりしているのだろう。

 ところが我が国は、もともと二分法だけではない思考なのだ。世界を同じひとつの考え方やルールにして、究極的にワン・ワールドをつくろうという発想はない。
 これからは日本も世界もその発想に気づく時代がくるのではなかろうか?




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
生きてると死んでるの中間は植物状態でしょうか?奴隷でしょうか?
生かさず殺さずが好しとするならそうしてみせようと考える輩がいるかもしれませんね。
Posted by たていと at 2017年01月17日 11:57
中間が許されるからこそあの人は国会議員になれるのですね。
台湾人か日本人を選ぶなんて意味の無い話でした!
Posted by たていと at 2017年01月18日 05:30
副島はいつまで経ってもお笑いでしかありませぬが、彼の言う世界標準というもの自体が、時代によって輪郭を変えていくということも理解していないのでしょう。世界標準に拘泥していては、結局こちらが振り回されるばかりですな。

重岡
Posted by 重岡重雄 at 2017年01月18日 18:08
重岡重雄 様
コメントありがとうございます。
副島…いつまでも偉そうにでしゃばるのが目障りでしてね。彼にだまされている若者が気の毒です。
Posted by 重岡重雄様へ(ブログ筆者です) at 2017年01月19日 09:58
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。