2017年01月30日

徴兵制を復活せよ(3/6)


《3》
 「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という諺は、インテリからは反感を食らうようだが、間違いではないのだ。作家の三島由紀夫が文筆のかたわら空手、剣道、ボディビルなどで体を鍛えたことをもって、せせら笑ったインテリは多かったが、そういうテメエは酒に溺れ、夜更し朝寝坊でだらだらした人生しか送らなかった。三島由紀夫の場合は、肉体を他人に見せたい欲求から鍛錬した傾向もあって、あまり健全とは言えなかったが…。

 心とか精神なるものは、かってに肉体に宿るものではない。体が鍛えられていなければ、精神は宿らないこともまた確かなのである。問題はその鍛え方にあるのであって、体と直接に心も丈夫に健全になっていかなければダメなのである。その点で軍隊の訓練は良い。旅客機のパイロットも以前は自衛隊に入隊して飛行訓練を受けた。その体験者に聞くと、自衛隊では怒られっぱなしの殴られっぱなしで、青あざが絶えなかったそうだ。民間での訓練とは中身が違う。そういう訓練が現今の日本の若者に必要だ。肉体と精神の質が違ってくる。

 軍隊の軍事訓練というと、大砲や鉄砲を撃つとか、泥の中を匍匐前進するとかをイメージされるかもしれないが、そればかりではない。掃除、洗濯を自分できっちりやることや、大声での発音もいいし、食事を素早く食べることもいい、二年間たまの休み以外は娑婆に出られないこともいい。そういうもの全部をひっくるめて心身が鍛えられるから、私は徴兵して若者に軍隊生活をさせろと言っている。

 発音の大事性は以前本ブログで説いたから詳細は割愛するが、軍隊でも姓名申告や命令の復唱、気合、軍歌高唱など裂帛音での発音が強制される。これが頭を良くするのだ。われわれの空手でも気合、発音は重視していることはすでに述べた。きちんとした発音をするには、唇に力が入っていなければならない。それが空手の技の鋭さに直結する。

 旧軍では軍人勅諭などを暗唱させられた。記憶力も鍛えられるだけでなく、それをきちんと発音させられることにより、頭が良くなった。そのうえ40キロの重装備で行軍させられた。だから帝国陸軍は心身ともに鍛えられ、支那兵と戦って連戦連勝敵なしだったのだ。
 よくわれわれの流派での合宿で初めて参加する若者に、坊主でさえ体は鍛えている、と説かれたものだ。朝は4時から起床して、掃除、洗濯、炊事をやって体を動かし、食事は一汁一菜の粗食、それを5年も6年も山のなかで続ける。疑似軍隊生活なのだ。だから精神が鍛えられる。坊主でさえそうなのだ。

 もっとも、中世の寺社では仏教を修行する者(僧侶)より、雑務や借金の取り立てや、武士・他の寺社と戦争に従事する「行人(ぎょうにん)」や「聖」がほとんどで、僧兵を兼ねたから、日ごろ体も武術も鍛えていた。だから寺社では疑似軍隊生活だったのは当たり前だ。

 現在の日本では、思春期に限っても感覚器官が見事に発育する時期に、感覚器官が発育する訓練がなされない。その期間、受験一色か落ちこぼれた奴はバカみたいなテレビゲームでうつつを抜かしている。本当は大人になる前に手足の神経を運動形態として発育させて、脳細胞がその運動形態を受け取ることで運動形態として成長しなければならないのに、そうなっていない。

 だから遅まきながらではあるが、18歳くらいで強制的に青年を軍隊でしごきあげ、脳細胞が運動形態として成長する機会を持たせるべきなのである。
 さらにいえば軍隊は集団生活である。旧制高校の寮生活と同様、そこでは個性は許されず、集団がすべてである。すべては集団力が発揮されるように鍛えられる。

 それが人間本来のありかたなのだから、優れた教育になる。集団力とは、例えば10人が一つのことに力を合わせると、10人の力を加算した合計の力ではなく、掛け算した効果が出ることを言う。これはやったものでなければ理屈はわかるまい。

 ちなみに資本主義経済は、この集団力で上げた成果のプラスアルファ分を労働者に還元せず、資本家が総取りして儲けるシステムである。
 また、中世の寺社が隆盛を極め、今日にもその豪奢な佇まいを残しているほどにカネにまみれたわけは、僧兵等の集団力を使って「余剰資産」を溜めることができたからだろう。

 修行僧が行人らの上に君臨しつつ、お経を読んで暮らせたのも、祗園で豪遊ができたのも、集団力による富の蓄積ゆえであろう。

 野球でいえば、体力ではアメリカや中南米の選手に適わない日本選手であっても優勝したり、いいところまで勝ち進むのは、日本チームはひとつになって集団力を発揮するから勝てるのである。あれが選手一人ひとりの力の加算の結果ではなく、集団力という積算の力をどの監督も伝統的に引き出した結果であった。

 徴兵で軍隊生活を送れば、いやおうなくこの集団力をわからされる。それが日本の国力になるだろう。実際、明治維新から日本がすさまじい発展を遂げた原動力は国民皆教育と皆兵教育で国民を一つにして集団力を見事に引き出したからでああった。
 今は個性ばかり尊重されるから、この集団力が理解されない。

 サッカーでもW杯の全日本監督をやったオシムはそういう集団力のチームにしようとしていたのではないかと思われた。日本のスポーツ新聞で、代表チームにスター選手を求める傾向をオシムが批判していた記事を読んだ記憶があるが、オシムは正しいチームづくりをしていると思われたのに、病で倒れ残念なことをした。
 旧軍は集団力を発揮できるように兵を鍛えていたと思う。そうした良い点は民族として継承すべきなのだ。

 徴兵による軍隊生活の良いところは、まだある。男が二年間娑婆から隔離される。休みの日に外出は許可されるだろうが、おかげで男女の仲が遠ざけられることである。今は高校生、へたをすると中学生から男女が濃厚に付き合って、似非恋愛を繰り広げている。何度も本ブログで書いたが中・高校生で恋愛はできるものではなく、やってはならないものだ。

 今の若い人は恋を謳歌した映画やドラマ、歌謡曲の影響を受けて、そのマネでしかない恋愛ごっこにうつつをぬかしているだけだ。だが、男はいったん徴兵で軍隊に入れば、彼女に逢えない分、憧れはすさまじく認識に広がり、結果として心が豊かになる。彼女のほうも恋する男に恋いこがれつつ娑婆で暮らしているから、これまた憧れが膨らみ、心豊かになるのである。

 旧軍の若者たちが、戦場に赴くときに短歌を恋する人に遺していく、女も男への想いを短歌に託して贈る。そうした短歌が戦時中にごまんと詠まれた。それらを読めばわかるように、恋人どうしが逢えないからこそ見事な心が育まれる。現今の若者にそんな見事な短歌を創る実力はないではないか。

 軍隊のせいで男女が二年間引き離されることが、見事な恋愛の心を取り戻すチャンスになるのだ。否定の否定である。仮にそれで二人の仲が終わったとて、この世の終わりじゃあるまいし、次のまた豊かな心での充実した本物の恋愛をすればいいだけのことである。男は徴兵の2年で立派に成長して、彼女にふさわしい人間になろうとする。女は2年間、彼に逢えない分、がんばって立派になって除隊してくる彼にふさわしい女性になろうとする。

 そういう期間を国家がつくってくれるのだから、辛い2年間がありがたく思えるときがくるのだ。
 こういう耐える時期、つらい時期を持つことは極めて重要である。それがないから刹那的な、こらえ性のない親子殺し、兄弟殺し、恋人殺しが頻発する。耐えることを教育しないからだ。現代ほど軍隊教育で耐えることを国民に教えなければならないときはない。

 そうやって見事に耐える認識力とともに恋愛をする実力をつけた男と女が再び豊かな心で仕事や学業に復帰し、恋愛をし、結婚して生活をともにするようになれば、これまた子どもの育児、教育に計り知れない良い影響を及ぼすので、国家としても見事な文化の創造につなげていける。

 こうした徴兵制の長所を検討することもなく、徴兵制はあってもいいと発言しただけの知事を血祭りにあげるサヨクやマスゴミは、バカである。意見を述べること自体を言論規制ないし封殺するのだから、底知れぬバカだ。さぞやアメリカや中国、いやイルミナティがその策謀の成果にほくそ笑んでいることだろう。

 東国原発言にヒステリックな反応をしたサヨクよ、そしてテレビで東国原なんぞたかがタレントではないかと冷笑してみせたコメンテータどもよ、私が以上のように、軽く説いた徴兵制の長所(必要性)の論理に反論してみろ。感情的な戦争反対しか言えまい。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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