2017年02月02日

徴兵制を復活せよ(6/6)


《6》
 前回の最後に「徴兵反対を言う方は、結局自分の感情と問いかけ(的認識)だけを大事にして、反発している」と書いた。ここの説明をより詳しくして本項を終わりたい。

 輸血を拒否することで有名なカルト団体がある。この信者は無知で知的レベルの低い人を集め、主婦サークル、勉強会などを開いていて「子どもたちに戦いのない世界を残すために、まず自分たちが争いごとを止めましょう、日本の一番大きな武力は自衛隊です、これを止めさせて優しい社会を実現しましょう」と話すそうである。

 空手や柔道をやるなぞとんでもない所業らしい。で、それに賛同した人が戦争絶対反対、防衛費削減と言って署名活動をしているそうだ。戦争絶対反対は、社会党だけの専権事項ではないらしい。
 おそらくは支那や韓国あたりが、こうしたカルトを使って日本の軍事力を殺ぎ、大衆をほうけさせる手練手管を駆使していると見られる。
 こいつらの言っていることは100%間違いである。

 話は飛ぶようだが、現代の子は空想の世界を怖がるよりも、実物を怖がる傾向があるようだ。登校拒否や引きこもりがそれである。友達に苛められるから怖い、となって、引きこもる。カルト教団が、世の中から争いごとをなくしましょう、と言っているのは、これである。苛めが怖い、争いごとが怖い、と問いかける。だから争いごとや苛めをなくせば怖くなくなる、と思い込む。逃げである。

 こうなるのは、個性を尊重する教育のせいだ。個性とは自分の感情に見合う像(対象)は取り入れるが、気に入らない像(対象)は拒絶する。それを周囲も許してしまう。嫌いなのも個性よね。と。
 それで戦争絶対反対となる。苛め絶対反対、暴力絶対反対(だから体罰も反対)になる。苛められたら、やり返せばいいのに、それは怖いから、争いごとはいけないと夢物語でごまかす。争いごとが嫌いなのではなく、戦うのが怖いだけのくせに。戦いが怖いと問いかけているのだ。

 それが発展して自衛隊をなくしましょう、になっていく。あるいは昔の軍隊は全部悪かったにしてしまう。要するに腰抜けの自己弁護でしかない。苛められたら戦えよ、ぐじぐじ言ってないで。
 こういう甘ちゃんのもとに、カルトや周辺国の人間が猫なで声で忍びよってくる。また、こういう甘ちゃんをカルトや周辺国は大衆全体に広めようと画策する。それがまたイルミナティや国際金融マフィアの手口でもある。主権にも主体性にも目覚めさせない。
 それゆえ、私は主権と主体性を取り戻すために徴兵制を導入して若者を鍛えるべきだと言っている。

 認識は感情像であることは、本ブログで何度も説いてきた。対象に問いかけることで、われわれは感情像が形成される。それを個性に任せれば(現在の学校教育がそれであるが)自分勝手な感情像ばかり(問いかけて)創るようになる。決して対象の構造にみあった感情像をつくる努力をしない。

 例えば開高健のグルメを批判した(1月20日)が、開高はうまいものをたらふく食いたいという感情像を創り、それで生きてしまった。グルメばかりやっていたら、癌になるぞという学習はしなかった。グルメをやればその対象の構造に規定されて体は癌化していく。彼はそこを慮ることなく、うまいものはいいと問いかけ、それで創った感情にだけ抱きついてしまった。

 戦争反対、体罰反対をコメントで言って来られる方は、私には自分好みの問いかけ方しかしていないように見える。
 戦争はたしかに良い事は何もないように見える。まして日本ではサヨクによって(あるいはカルトによって)戦争はいけないと刷り込まれている人が多い。

 繰り返し言うが、これは対象(この世界)の構造に見合った認識=像ではない。国家の誕生を説いたときに触れたが、他共同体との対峙が国家の誕生になる。人類は共同体なしには生きられない。つまり社会的存在である。その共同体は必ず、他共同体との対峙になる。それが国家というものの構造である。避けようがない。この構造への問いかけは絶対にしないではないか。

 なぜ国家が他共同体との対峙になるかといえば、一つには動物的な縄張りができる必然で捉えてもらっていいし、もう一つは人間は問いかけ的認識になる、つまり感じ方考え方は千差万別になって絶対に一致しないからだ。それで争いになる。
 その「対峙」は必ずしも戦争に結びつくとは限らない。原始時代は即、戦争になったかもしれないが、人類は悲惨な戦争を幾度も経験して多少は賢くなり、交渉を発展させるように知恵がついた。だから現在は何でも戦争にはならず、国家どうしは外交交渉になる。クラウゼビッツが言ったように、外交の延長が戦争なのだ。
 戦争は避けるべきである。だが外交交渉は廃止するわけにはいかない。
 
 私だって、戦争が好きなのかと問われれば、嫌いだ、反対だと答える。それはまあ普通の感情である。誰でも人は殺したくない、殺されたくない、その感情だ。それをいけないとは言っていないが、それだけ主張するのはナンセンスだ。これは汚い譬えで申し訳ないが、ウンチが汚い、嫌だからと言って、飯を食わないというようなものだ。

 学校の友だちとは仲良くしたい、は、わかる。しかし苛めはなくならないのだ。苛めのない社会などあり得ない。それは国家レベルでいえば、外交がない世界があり得ないのと同じである。
 徴兵、兵役はそのことをしっかり学ばせるためにもある。人間は個人では生きていけないのだ、と。国家の一員として生きるしかない。それを実感できる機会が兵役である。

 すなわち兵士として画一的教育を施すのだ。強引に寄宿舎生活で画一教育を徹底させる。同じ服を着せ、同じ飯を食い、同じ歌を歌い、同じ時間に行動する。挨拶をきちんとさせる、掃除を徹底してやらせる。あとはバカみたいな(?)兵器の手入れの繰り返し。それが否定の否定になって、娑婆に出たときに(兵役が終わったときに)、見事な個性が発揮できるように立派な人間に成長できる。

 こういうことは、やってみなければ理解できまい。われわれの流派の空手にはそういうものがある。経験できる。だから良いものなのだと言っている。
 私がもし今、20歳くらいで、2年間徴兵にとられるとなったら、それは個人的感情としては嫌だなと思うだろう。自由がなくなる。恋人とも別れなければならない。人生の中で無駄な2年間じゃないかと思うだろう。しかし、それを超えるものが兵役にはある、と信じられれば、しょうがない2年の辛抱だ、となるだろう。国民の義務だしな…と。それでいい。軍隊に入ればあとはしっかり教育される。
 
 軍隊というところは確かに天国ではない。かつて野間宏が『真空地帯』で、大西巨人が『神聖喜劇』で描いたように、非人間的な生活であったかもしれない。だが、その「人の嫌がる軍隊」のはずが、今やご老体となった80、90のかつての戦士が、「戦友会」といって、今も和気あいあいと集まって、久闊を叙している。あの何と言うのか、友情というのか…心の絆は、軍隊が野間や大西の描く地獄ではないことの証明である。

 私の父は軍隊経験があった。幸い戦地に行かずにすんだから言えるのだけれど、面白かった話しか聞いたことがない。連隊長の印を偽造して、通行証をせしめたなんて話を愉快そうに語ってくれる。一方で私の高校時代の先生は軍隊は嫌なことばかりだったと怨嗟のつぶやきを繰り返していた。どちらが正しく、どちらかが間違いということはないだろう。要は捉え方しだいなのだ。

 私の父は、みんな軍隊に入ることを嫌がっていたけれど、自分ははりきって入隊したと自慢する。入隊初日に上官から「貴様らで、軍人勅諭を暗唱できる者はいるか?」と問われて、父だけがすかさず挙手しすらすらと暗唱してみせたら(普通の人は軍隊が嫌だから暗唱なんかしてこない)、上官にいたく気に入ってもらえ、お前は優秀だと認められて、3か月の教育召集が終わっても軍隊に残されたという。

 当時は3か月の教育召集が終わると半年もしないうちに再招集され、みんな南方戦線に引っぱられ多くが戦死したが、おかげで内地に残され命拾いしたのだった。偶然とは言えるが、父は(嫌なはずの)軍隊を自分の能動的な問いかけを持って捉えようとしたから、軍隊すらが楽しいものとして反映した。その積極さが、命拾いにつながったのだと思う。これを軍国主義者と笑うべきではない。

 私が経験した空手だとて、やっている最中はいわば地獄の練習だったが、振り返ってみればあんなに楽しいことはなかったと断言できる。そういう経験がない人は気の毒としか言いようがない。
 何が言いたいかといえば、自分が関わる対象は客観かつ能動的に関わることであり、前向きに捉えるべきなのだ。それが私が言いたい、まともな問いかけでの認識である。

 だが徴兵は無駄だ、意味がない、悪だと主観で問いかければ、それはそのようにしか反映してこない。
 徴兵制復活も、かくのごとくに前向きに、能動的に捉えなければならない。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
媚び中副島もそのやふに考へてゐますが、そも自衛隊イコォル戦争といふのが破綻しております。
Posted by シャア専用 at 2017年02月03日 12:11
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