2017年02月21日

日本人のココロのルーツ



 ある人から、こう尋ねられた。
 「あなたは自分を唯物論者だと言っている。そして21世紀は学問や芸術なども唯物論で創りなおすのだと説いている。しかし、日本には山川草木すべてに神が宿るという神道の捉え方がある、これについてはどう考えているのか。迷信といって排除するのか。神道の考え方は、日本人であるあなたの心の素養にもなっていると思う。これを否定することはできないのではないか?」

 これは良い質問だ。唯物論では日本人の魂をどう捉えるか詳らかにせよというのだろう。以下に私がどう答えたかを再現してみる。

 日本における神と人の関係は、大きくは祖霊(それい)、御霊(ごりょう)、自然神にわかれる。祖霊は先祖の神様、御霊は先祖神に近いが祟り神、自然神は岩とか植物などの自然物である。「能」はこのいずれにも関わる芸能であり、また神事である。
 この件については、昨年秋に書いた「能」の記述に詳しく述べた。
 今回の質問は主に自然神に関わる質問だとして、先に進もう。

 拙ブログで何度もくり返し紹介したが、エルンスト・ヘッケルが発見した「個体発生は系統発生をくりかえす」は見事な法則である。ある動物の発生はその動物の進化の道筋をたどって行われる、というより辿らなければならない、とするものだ。
 この「個体発生は系統発生を繰り返す」という法則は「個人の成長過程は人類史を繰り返す」ともなる。言い方を変えれば「人間は胎内で生物進化の一般性をたどるが、成長過程でも人類の歴史の一般性を辿るのだ、と。「成長過程でも一般性を辿る」とは、たとえば赤ちゃんのハイハイは両生類段階を経験しているわけで、両生類の運動をしなければ哺乳類になれない。認識の成長でもである。

 『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)には、こうある。
 「人間は二重の意味で『いのちの歴史』を歩まされています。一つは生物としての人間歴史として、もう一つは個としての人間の歴史として。このようにして人間は人間になってきているのです…」

 私たちは赤ん坊のころから、“生命体にとっての発生のくり返し”とともに、“人類の文化史のくり返し”をやらなければならない。私たちが幼児から小学校、中学校、高校へと受ける教育は、“人類の文化史のくり返し”なのである。
 端的に言えば、私たちは子どもの頃から、人類の、だけでなく日本人の、原初からの文化史のくり返しを経験しなければならない。

 よって原始人のアタマとココロであった「鳥獣木草すべてに神が宿る」を通過しなければならないのである。
 外国で生まれ育って青年になって帰国した人と接すると、日本語はできるのだが何となく違和感を覚えると思うが、その原因がこれではあるまいか。

 近隣に鎮守の森があり、路傍に地蔵が鎮座し、正月には初詣に行き、寝床の中で祖母や親から昔話を聴き、怖い幽霊の話に震え、お雛様を飾り、先祖の墓参りをし、お盆の行事をやり、(外国の習慣だが)サンタさんを信じ……と、誰でも子どものころに経験した、そういった原初の観念論は、なくてはならないものなのである。

 たしか三浦つとむさんは、自分は子どものころから神様なんか信じていなかった、と書いていたと思うが、それはたぶんウソであり、また本当ならそれではまずいのだ。
 しかし大人になったら、先に言った神に関わる行事を真っ正直に信じるヤツはおかしい人間である。神がいるわけはないと、思わないのは知恵遅れでしかない。大人にもなって正月にこぞって初詣なんかに行き、銭を放り込んでくるのはアホである。本人も神に祈って家内安全大願成就が叶うとは思っていまいに。祈れば願いが叶うなら、全員が宝くじに当たっていいはずじゃないかネ。

 こう書くと猛烈な反発があろうけれど、まちがいはまちがいなのだ。しかし、それは子どもには必要なものである。
 人類は、観念論(宗教)を通過してから、ようやく今、唯物論の世界へと進歩してきたからである。

 宮本武蔵も戦国末期から江戸初期の人だから、片足は宗教に突っ込んでいる。晩年は寺に住んだというが、決闘のさいには「われ神仏をたのまず」と言ったとか。そうやって徐々に我等の先祖は観念論から唯物論へと移行してきたのである。

 原始時代の人間は、稲は太陽や水の神が恵んでくれたのだ、洪水や土砂崩れは神の怒りだと、そう思って当然であろう。だから日本人は「山川草木」すべてに神が宿る、と思い、シンキロウ首相が、日本は神の国だと言ったことに賛同する。それはまあ良しとしても、21世紀になってもまだ宗教かよ、なのである。

 唯物論が正しいとはいうものの、子どもにいきなり唯物論でものを考えさせるのは好ましくない。
 なぜなら、これはどうせ大人になったらセックスするのだから、小学生からだって愛があればいいんだよ、というようなものになる。
 観念論の経験なしに唯物論から出発したら、子どもが生まれたのは親の愛情なんかではなくて、動物的な交尾のせいだ、などという話にもなりかねない。

 ものには順序があり、時期がある。
 いきなり唯物論では、ココロとは何かがわからない。子どもは例えば、神様という捉え方を通じて「優しさ」とか「人に尽くす」とか、怒りとかを学ぶのである。亡くなった先祖が自分たちを守ってくれるから自分も親や兄弟を大事にするんだなとか、小さなアリにも命があって、むやみに踏んづけてはいけない、とかを知るのだ。

 こうも言えるだろう。3歳児までは「即自」でしかあり得ず、そこから「対自」の目覚めていくには、相互浸透の対象として「カミ」のごときものがあったほうが、そこから先に「即自対自」へと量質転化しなければならないけれど、そこで唯物論を教育されるかどうか…であろうか。

 京都や奈良にある神社仏閣は、大人が信仰の対象にするべきものではない。われら先祖が今日の私たちにつながる文化を創ってくれた、過去の生きざまとか文化を偲ぶ対象である。
 あれらは全部幼児語でいえば「ののさま」となるであろう。
 亡くなった人を「ののさま」と言う。お月様も「ののさま」だし、仏さんも「ののさま」。あらゆる霊的なものを認めた場合に、幼児語で「ののさま」なのだ。

 先に能の話をちょっとしたが、能には仏教が日本に入って来る前の日本固有の、いわば国家が出来る前の、日本人のココロのルーツに辿っていけるものがある。以前にも書いたが、能が藝術となったのは、明治以降のことであって、江戸期までは明らかに神事(非業の死をとげた人間による祟りの防止)である。
 根本には人間が神になるという考えがある。死んだ人のことを仏様とは言うものの、本来の仏教では仏様とは悟った人を指す。解脱した人。だが日本人はそれを受け付けない。カミと言う代わりに仏と呼ぶ。西洋人の言うゴッドとは全然ちがう。

 だから死んだ人=神になった人を悪く言わない。支那人は死んだ人間をあしざまに扱って平気である。日本では仏=神の悪口はタブーだ。これが本来の日本人のルーツ、またはハイマート(故郷)なのである。
 ルーツを辿るとは「系統発生をくり返す」ことなのだ。原初からの系統発生を辿らなくては、われわれは21世紀の人間足りえまい。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なるほど、心や頭が未分化である、幼児期には「神仏」を感じていいけど、成熟すれば、科学的に捕らえるべきだとおっしゃるんですね。

でもねえ・・・神様って「いる」んですよ。
「仏様」は「理念の結晶」だから「存在としては、いない」でも、「神様」は、本当に存在します。

あなたは、それを実感したことがないだけですって。
Posted by 神戸だいすき at 2017年02月21日 16:22
答えになっていません。
詭弁論者と言われますよ。
Posted by たていと at 2017年02月22日 11:40
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