2017年02月23日

島原の子守歌の魂(2/4)


《2》
 『島原の子守り歌』を作詞した宮崎康平は、島原鉄道の重役だったが、なにより邪馬台国の研究家として有名である。「からゆきさんの小部屋」の主宰者の方から教えていただいたが、宮崎康平は歌手さだまさしの恩人でもあり、『関白宣言』は彼をうたったもの、だそうである。
 以下、「宮崎康平のページ」というサイトを参考に紹介する。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1430/page036.html

 1917年長崎県島原市生まれ。早稲田大学文学部時代は森繁久彌らと演劇をやり、卒業後東宝に入社したが、兄の死去により帰郷して家業の土建業を継いだ。戦後、病没の父に代わって島原鉄道に入社、過労のため失明。33歳の若さだった。と同時に妻が出奔し、乳飲み子を置き去りにされた。このときの経験を下敷きに作詞されたのが絶唱『島原の子守り歌』である。

 しかし、宮崎氏のこの逆境からの立ち直りが素晴らしい。
 「だが、この失明は、かえって彼に闘志と活力を与えた。以後、事業に、地域の開発に、そして邪馬台国の探求にと、常人以上の精力的活動がはじまる。かくて、島原鉄道には快速のディーゼルカーが走り、バス路線は伸び、島原半島には乳牛が草を食み、たわわなバナナが南国の陽に映えた。新しい妻和子さんを眼とし、杖とし、ペンとして、記紀、倭人伝を500回も精読し、日本各地の遺跡を探り、遂にこの『まぼろしの邪馬台国』がなった」(同サイトから)

 片や福沢や伊藤のようなクソ野郎もいるが、宮崎康平氏のような日本の誇りもおられるのである。江戸中期の盲目の国学者・塙保己一のような人である。塙保己一も人に書物を音読してもらって暗記し、『群書類従』を著した。
 『まぼろしの邪馬台国』は昭和42年、大ベストセラーになった。無名の学究が彗星のごとく登場したことに、歴史学会は衝撃を受けたものだった。彼の投じた一石で「邪馬台国論争」が起きたのであった。第一回吉川英治文化賞を授賞している。作家・城山三郎の『盲人重役』は宮崎康平をモデルにした作品である。1980年没。「宮崎康平記念館」まである。

 宮崎氏の生きざまこそ見事である。われわれは自身の怠惰を本当に恥じなければならない。だから私は、歩けなくなったとか目が見えないとかですぐ車椅子に乗って人様に押してもらう人間とか、辛いことがあったから悩んで心の病になりましたとか言う人を批判するのである。ブログでもこのことを再三言ってきたが、そうすると必ず、障害者への苛めだ、差別だとコメントが来る。何が差別だ、宮崎康平さんを見習え。

 また、彼は昭和15年、大東亜戦争の前年に早大を卒業しているから、いわゆる旧制高校の魂を学んだ世代である。宮崎康平は旧制高校の魂を把持した。これこそが「心に青雲」を抱いて苦難を乗り越えたということなのだ。
 彼は、絶唱『島原の子守り歌』をつくって、昔のからゆきの境涯に同情し悼んだだけではないのだ。からゆきの出ていかざるを得なかった極貧の社会を変えたのである。だから「かくて、島原鉄道には快速のディーゼルカーが走り、バス路線は伸び、島原半島には乳牛が草を食み、たわわなバナナが南国の陽に映えた」というサイトの文言になるのである。それを妻に捨てられ、乳飲み子を抱いて呆然と…はしなかった彼・宮崎康平が成し遂げたのである。

 ついでに仏教批判をしておくと、からゆきたちに手を差し伸べた坊主は誰もいなかった、たった一人裸足の僧・広田言証を除けば…。広田言証は裸足で托鉢しながら北はシベリア・満州から南は東南アジアやインドのジャングルまで歩いて、からゆきさんを訪ね、施餓鬼供養をした人物である。言証については後述するとして、まずは仏教僧の人でなしどもである。

 からゆきたちは、貧しい実家の家計を少しでも助けようと、必死になって故国に送金した。そして自分の死後の墓や死んだ仲間の供養のために、寺院に多額の寄進をした。文字通り身を削ったカネである。寄進された寺では、そのカネを受け取って、なにがし読経しただけであっただろう。仏の道を説くなら、どうして女たちを救おうとしないのだ?

 昔はどこの田舎に行っても、農家はまずしく、男も女も幼児のときから奉公に出され「粟ん飯」を食い、「あばら屋じゃけんど」だったのに、寺だけは武家屋敷並の威風堂々立派な造りであったが、あれこそ、貧しい百姓を地獄に落ちるぞとか、仏を拝まないと先祖が苦しんでいるぞなどと脅して、カネを(布施として)巻き上げた名残=証拠である。死ねば死んだで葬式代や戒名代をふんだくった。巻き上げたカネ(銭)は、本山にも納められた。本山は一大フィナンシャルグループとなり、貴族や武士らにカネを貸しなどして大勢力となった。

 そのわれわれ庶民を虐げ、収奪してきた天皇家や僧侶に向かって、ありがたい、もったいないと掌をあわせるのだから、いったいこれは何だろうか? 何千年、こんな愚行をやったら人は目覚めるのだろう。
 世間ではともすれば、オウム真理教や創価学会など新興宗教だけを「カルト」と言って蔑むけれど、在来仏教だって耶蘇教だって、宗教の基本は同じであって、蔑むべき対象である。さんざん殺戮をやり、貧民をだまして富を巻き上げてきたのだ。なんでそんなものを信仰するんです、みなさん?

 現世が不安だからですか? でも宮崎康平さんを見なさいよ。盲目になっても信仰なんかにすがらずに、世のため人のため、いばらの道を切り拓いたではないですか。
 さて、先ほど述べた広田言証であるが、彼は明治年間に海外のからゆきを訪ねて巡礼の旅をした人物である。酷寒のシベリアから南方のジャングルまで、娼館のからゆきを集めては施餓鬼供養を行った。そのとき、彼女らは一心に掌をあわせて拝み、布施を包んだのである。

 何を彼女らは祈ったのだろうか。故郷の親族の無事を、だろうか。それとも自分が故国に帰還する日の早からんことを、か? 身を削って得た貴重なカネ…ゴロツキ女衒に言われなき借金苦を背負わされて返済に追われていながら…、貯めたカネを布施にして故国の寺院に寄付してしまう…。そのカネは「浄財」などと体裁のいい言葉に換えられ、言証によって持ち帰られ、島原市の大師通りにある理性院大師堂の「玉垣と天如塔(からゆきの尖塔)」に化けた。

 言証としては善意であり、そうする他なかったのかとも思うが、からゆきさんの貴重なカネを、坊主と石屋が儲けて、こんな玉垣に換わっただけというのは、あまりに悲しい。せめて彼女らにおいしいものでも食べさせ、きれいな着物でも好きに買わせてやりたいではないか。あるいは故国に帰して、ゆっくり温泉にでもつかってもらいたいではないか。

 玉垣には紅の文字で「阿南トンキン 高谷マサ 六十円」とか「マンデレイ 前田フユ 七円」などとある。明治、大正期のカネにして60円とか7円とかいうのだ。なかなかの大金だったかと思うべきである。この玉垣だけが彼女たちの生きた証しである。これも先の「からゆきさんの小部屋」のサイトで写真が見られる。私たちは、今となっては、彼女ら同胞の在りし日を想ってあげる以外に、いわゆる供養の手段はないのであるが…。まずは彼女らの在りし日々の姿を知らねば始まらない。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めまして、でございます。
本当の歴史が公開されることは、この先あるのでしょうか?
歴史とは政治的なものですからね。
女を売り買いは、古今東西、不変のもの。
男が欲する原理が有る限り、金になるのですね。人間の業に根源がありますね。
Posted by 星祭 at 2017年02月23日 07:43
星祭 様
コメントありがとうございます。
おっしゃるとおりです。
本当の歴史は公開されることはないでしょうね。
Posted by 星祭 様へ(ブログ筆者です) at 2017年02月23日 09:07
今の時代をありがたいと思わなければなりませんが、今でも、人身売買はあるんですよね?

売春防止法ができてからのほうが、巧妙になって、権力者の犯罪になったり、素人売春になったりして、おかしな具合になっているみたい。

しかし、ここを、何べん読ませてもらっても、ほぼ「従軍慰安婦」ものがたりと、同じですが、女たちの反応が全然違いますね。

これが、やまとなでしこかと思うと、切なくなります。

あの国では、売春を輸出して金儲けを積極的にやっているみたいじゃないですか?
Posted by 神戸だいすき at 2017年02月24日 16:53
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