2017年03月02日

弁証法的な運転の仕方(2/2)


《2》
 例えば、高速道路を走っているとして、このとき時速100キロなら100キロを、1000キロにわたって続けることである。それはコンピューターに時速をインプットさせてやらせることではむろん、ない。自分のアクセル操作、ブレーキ操作だけで神経を駆使して同じ速度を保つ。
 こんなことは脳細胞はやらない。やりたくない。だがあえてそれをやる。これが修行になる。

 ある方に聞いたが、運転の上手な人に乗せていただくと、いつ発車したのか、いつ停車したのかわからないほどだった、という。急ブレーキほどでなくとも、車を停車するときは若干前のめりになる。へたな運転だと、ブレーキ、アクセルのたびにつんのめったり、のけぞったりさせられるが、そういう動揺がいっさいないそうだ。

 天皇を乗せるお召し自動車もかくや、という運転だそうだ。こうやって車という対象と見事なる相互浸透を果たしていくことである。
 実際はよほどの足先などの神経をつかってアクセル操作しているのだ。
 あるドラマで、大企業の社長お抱えの運転手がこう言う場面があった。社長を乗せる運転手は、車のダッシュボード上に水を入れたコップを乗せ、その水が一滴もこぼれないように運転するものだ、と。これが誇りというものの、いわば初級レベルである。

 それから。
 運転中についていえば、自分の運転する車の周囲を運動しているものと見、また、いわば過程の複合体的に見ることであろうか。季節、天候、曜日、時刻(朝か深夜かのように)、道路状況を踏まえる。そして自分の前後左右の車がどんな車なのか、その運転者がどんな認識で運転しているのか(営業車なら仕事で急いでいるとか、家族で乗っていて談笑しながら運転しているから、やや注意力散漫になっているとかを瞬時に見極めるものだ)、初心者かベテランか女性かを見極め、信号や標識を判断し、この先にどんな信号や踏切があり、駐車中の車がいるか、右折車、左折車がいるか、歩行者が飛び出してこないか、警官はいないか、などなどを刻々と反映し予測しつつ運転するものである。

 これがいわば弁証法的な運転だ。
 運転する自分の車や周囲の対象(道路や信号機や前後左右の車など)との実体的関わりで相互浸透し、量質転化させることだ。すなわち、弁証法を実践によって発見し、創ることである。
 しかし以前にも書いたが女性ドライバーは得てしてこういう弁証法的運転はしない。前方は見ているが、後ろから来る車はまったく考慮のほかであるとか、自分が左斜線に入りたければ、周囲がどんな走行をしていようがお構いなくウインカーも出さずに入ってくるとか…、そういう運転をなさる。

 だから前後左右に女性ドライバーがいたら、それなりに注意しなければいけない。車間をあけるとか、先に行かせるとかを実施しなければ危ない。しかし車間を開けすぎると、今度は別の焦っている車が強引に割り込んで来かねないから、そこをどう判断して適切な車間をとるか、とか。
 
 こういう認識の流れを楽しまない人は運転がうまくならないだろうし、弁証法的運転の実践はできまい。要は自分が運転している現在の道路状況に、自分を合わせつつ、対立物の統一として自分の思ったような快適で安全な運転をやるのだ。道路状況に合わせることと、自分のやりたい運転をすることの統一、すなわちこれは矛盾であるが、それを刻々と「非敵対的矛盾」として刻々と流れるように創出していくものである。

 『自動車の選び方』で「躍動感」の話を紹介したけれど、端的に言えば弁証法は躍動感である。だから認識も実体も躍動感を帯びていなければ弁証法はわからないのである。
 弁証法とはこれまた端的には運動である。運転を見れば、まさに運動であって、刻一刻と状況が変わり、自分の認識も変化していく。その変化するなかで、誇り高く、志高く、を把持して運転していくのだ。

 と言われたところで、やったことがなければわからない。わからないからこそ工夫である。私の場合はこれという音楽を聴きながら運転をした。例えば軍歌や寮歌であり、ベートーヴェンの「運命」や「英雄」であった。それと相互浸透させながら、誇り高く運転するとはどういうことかを探った。
 これは同時に感性を磨くための運転にもなる。

 弁証法とは、対象を運動形態において把握するための一般教養なのだから、車の運転とは、自分の車との関わりもさることながら、運転中の躍動感や周囲の状況に的確にあわせた運転などを追及しつつ、その対象を変化発展として捉えていくことであろう。

 むろん自分勝手な運転をするヤカラもいるけれど、運転する人間は、これまで述べてきたごとく、社会関係に認識を置くのでなければならず、そうでない女性ドライバーは大変な迷惑なのである。そしてこうした社会関係に認識を置くからこそ発展があるのだ。
 例えば、より良い車に乗って、そのより良い車からより良い認識をもらう、というように発展させるのである。

 これまで、私の知り合いのなかには弁証法を勉強したい、認識論をわかりたい、と志望する人間はいた。その人に必ずアドバイスしてきたことは、できるだけクルマの免許をとって運転するべきだということだった。しかし、たいていの人は勉強するとは、本を読むことだと刷り込まれている、その思いが抜きがたいのだ。クルマなんか関係ないと思ってしまう。クルマなんか運転するより、ヘーゲルの本を理解しなければ…となってしまう。

 クルマに乗らなければ弁証法がわかる頭にならない、というわけではもちろんないけれど…。空手に役立つような運転を、弁証法の修得に役立つ運転を、なのであって、なにごとによらず目的意識的にやればいいのだ。
 
 例えば、われわれの空手でいえば、突きがまずければ、なぜそうなのか、そうなってきたのかを被指導者に(弁証法を踏まえて)説かねばならない。そして上達させなければならない。

 それが空手と弁証法を同じものとして教えることであり、それを世界で初めて実践されて、史上最高の頭脳を創られたのが南ク継正先生であった。つまり、やっていることを弁証法として人に教えなければ実力にはならないのである。
 自動車の選び方も、そして運転のあり方も、なぜそうなのか、なぜうまく運転できなかったのか、誇り高く運転するとはいかなることか、などを実体たる外界(対象)と関わることで学ぶこと、あるいは弁証法として学ぶことにほかならない。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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