2017年07月24日

園部秀雄物語(1/2)


〈1〉
 園部秀雄。薙刀(なぎなた)の達人であった。2006年9月にブログに載せた記事を多少書き直して発表する。

〈1〉園部秀雄の修行過程
 園部秀雄は、直心影流薙刀術15代目(継承は明治28年)。
 おばあさんになってからのものだが、写真を見たい人は以下のHPを。
 http://www.jikishin-naginata.jp/html/page2.html
 え? おばあさん? そう、園部秀雄は男みたいな名前だが女流武道家であった。幼名を「日下たりた」と言った。道場に十七歳で入門してわずかな修行期間で試合にでた。わずか三年で天下無敵の看板武芸者となっている。

 YouTubeでは以下で模範試合が見られる。
https://www.youtube.com/watch?v=NtJlD11pj5k
 「看板武芸者」とは何かというと、江戸期からあったものだろうが、相撲なんかと同じように、武芸は興行であって、旅の芝居小屋のように全国をまわって、腕に自慢の剣士と闘うのである。興行一座に勝てば米1俵とかの景品がもらえる。

 園部秀雄も、佐竹鑑流斎一座という撃剣興行で全国を回っていた。当時(二十代)は「日下秀雄」と言っていたらしい。まだ15代を継承する前が全盛期である。
 撃剣一行の客寄せは、飛び入り勝手、日下秀雄を負かした者に大賞品贈呈とうたい上げたもので、地元剣士たちにとっては、おそれを知らぬ不敵な挑戦、たかが女に負けてなるか、と熱くなったことであろう。
 だが、生涯、百何戦して一敗しかしていないという伝説が残っている。

 とにかく、当時はまだ剣道も全国組織ではなく、地方地方にそれぞれ道場・流派があって、それぞれが覇を競っていたのである。だからそういう道場の者も「なまいきな」と、試合を申し込むことになる。
 興行側は、異種試合で受けてたつのだ。つまり「薙刀 対 日本刀」「薙刀 対 ヤリ」「薙刀 対 鎖ガマ・分銅」でもありなのである。女性でありながら、そういう異種試合でもつねに圧勝したのだから、どれほど凄まじい実力かわかるだろう。
 園部の言葉が残っている。
 「先生について修行していた時はどんなことがあっても一日も休んだことはなかった。あるとき、手の傷が膿でひどく腫れ大根のようになった時がある。それを切ったら膿が畳一面に飛んだことがあった。それでも稽古は休まなかった。技よりは精神ですよ。」

 園部は、「技よりは精神」といっているが、薙刀の達人にして残念ながら、上達の論理構造は説けなかった(当たり前だ、上達の構造を解いたのは南ク継正先生が世界で初めてだったのだから)。この言葉に、彼女が達人になれた秘密があると思うのだが…。達人ならぬ私には以下のことぐらいしか言えない。 それは、この「それでも稽古は休まなかった」にある。

 この言葉の背景には、つらいとき、休みたいとき、疲れたとき、休みたかったが「それでも稽古は休まなかった」と言っているのだ。そのとおりに、その疲れたとき、止めたくなったときこそが、技の上達のチャンスだからだ。そういう筋肉も神経も疲れた時点でなお練習を続けることは、いっそう神経を通常以上に頑張らせなければならない。冬、寒くて手がかじかんでいるときこそ、神経体力の養成にはよいのだと、わが流派の最高幹部はおっしゃった。書道家ならば、寒さに手がかじかんでいるときに、習字の修行をするといいのである。もしかして、日本女性は昔の暖房もない部屋でお針仕事を、アカギレのできた手でやったから、頭がよくなったのではないか。

 初代若乃花も、柔道の木村政彦も、たしか疲れて動けなくなってからが稽古だと、至言を語っていたはずである。疲れてからの鍛錬は、それまでの練習を「加算レベル」だとすれば、「積算レベル」での上達が図られるのではないだろうか。
 私の道場でも、100本蹴りをやると、もう50本蹴ったあたりで、息も絶え絶えになり、形は崩れ、もう止めたいと顔に出してしまう初心の者がいたが、その息が絶え絶えになってからこそ、形やスピードなどに気を集中させろと怒鳴ることになる。

 閑話休題。話を園部に戻す。
 こうした武芸興行は、やがてすたれていく。きっかけの一つは日清戦争後に全国で武道ブームがおき、日本の伝統武道をきちんと組織的に運営していこうじゃないか、という機運がうまれ、京都に「大日本武徳会」が結成される。それが全国統一組織へと流れていったようである。この武道ブームは、「起きた」のではなく「起こされた」のではないかと思うが、ま、それは置く。

 武芸興行は人気がなくなり、園部の「佐竹鑑流斎一座」は解散した。その後、園部は多くの高等女学校で薙刀術を教えるようになった。東京世田谷区に道場修徳館(薙刀教員養成所)を創立してからは本格的に女子薙刀教師の養成に尽力し、女子武道としての薙刀術興隆に貢献した。宗源寺(杉並区下高井戸)に園部秀雄女史の墓碑がある。
 薙刀というと、会津戦争で亡くなった会津藩の中野竹子も薙刀の達人であった。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
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