2017年07月25日

園部秀雄物語(2/2)


〈2〉竹刀にいたる病
 さて、南ク継正先生が園部秀雄について若干触れておられたことがあった。
「剣道家はかつて園部秀雄という薙刀使いの女性に全員がやられたのに、そのことを誰も書いていない。これが、剣道が間合いを工夫しなかった悲劇だったのに」と。
「月刊剣道」に堂本昭彦という人が園部のことを書いたことがあるようだが、これも「対ヤリ」試合のことを書いて、剣道が惨敗したことは遠慮したのか書いていない。(ウェブサイトで見られる)

 また。南ク継正先生は『武道講義』のなかで、われわれは剣の世界に遊学した、それゆえ剣の世界がわかったと説かれていた。
 そして剣道家には、武道の理論はできない。剣の世界にもともといた者は、武道を理論化することはできない。剣道の者は、剣の世界はいいのだという自惚れがあるから、他の世界に遊学してもすぐ戻るとも説かれていた。

 刀には斬れるという宿命がある。
 『剣は創るものだ』というのが空手で、剣道ははじめから瓦を5枚も割れるようなものだ。刀があるから。
 ここから剣の堕落がはじまる。空手家は、最初は手が瓦に当たっても瓦は割れない、と思っているから、技を創る自覚はなくとも技をそれなりに創りはじめる。
 だが、剣道は昇段審査で試し切りをやるわけでもない。

 坊主は本当は、経を創らねばならないのに、経を読んでしまう。剣道は『読んでいるくせに経を創ったつもり』と同じうんぬん、と。
 園部秀雄に薙刀の理論が書けなかったのも、そんな事情からか。
 
「坊主は、本当は経を創らねばならないのに、経を読んでしまう」とは、至言である。仏教のことは教科書レベルしか知らないが、日本では道元や日蓮、親鸞あたりが、それなりに経を創ったのであろう。坊主は自力で「経」を創ればいいのに、読むだけ(=斬れる刀をもらってしまう)から、人生を見事に創ることができないということだろうか。

〈3〉会社人間は考えない
 これがまた、会社人間の生きざまの「構造的欠陥」ではないだろうか。
 会社人間は、いわば斬れる刀をもらったようなものである。斬れてしまう、とは、会社で仕事ができてしまう、と同じことだ。だから、その刀が「定年」でなくなると、剣をなくした剣士と同じ無力な存在になるのだ。
 道場で、なかなか(何度も教えているのに)型の順番を覚えられない人間がいたので、尋ねてみた。いささか傲慢な質問とは思いつつ…。

 「貴君は会社と家で人生の大半を過ごし、その行き帰りで日々過ごしているが、その間、何か考える、ということをしているのか」と。会社での業務などは、たしかにどうしようかなどと考えてはいるだろうが、それは本当に考えるうちに入らない。竹刀を他人に作ってもらって剣道をするようなものだ。まして自宅に帰れば、飯を食って、テレビを見て、寝るばかり。どこにも必死に考えなければならない物事はない。

 空手の練習をしたいといっても、社会人ともなれば時間は取れない。そういうなかで、いかに効果的な練習をしていくか、あるいは個人としての勉強をしていくかが勝負である。例えば多忙のなか、1日5分しか空手の予習復習に時間が割けないとしたら、その5分をどれだけ有効に使うかに頭を使わなければ、決して空手は上達せず、いつまでたっても型の順番すら覚えることができない。

 指導者もむろん教えはするが、それから先は自分の工夫である。工夫とは考えることなのだ。電車に乗りながらどうやったら型の稽古ができるか、トイレのなかでも出来る型の稽古はないか、そうやって自分で考えることが大事であって、君たちのような年配の、体も学生のようには動かない人間が、玄和会の空手をやる意義はそこにある。教わったことをくり返していれば、たしかに黒帯にはなれるかもしれないが、頭はよくなっていかない。

 会社を定年退職した人の老後は哀れだろう、豪華な退職金や年金をもらったとしても。それは会社人間になって、何も考えない人生を送ってしまった報いなのだ。端的には「考えることを技化」仕損なった罰でもある。
 サラリーマンはサラリーマンなりに「坊主にとっての経」を(レベルの差はともかく)創らなければならない。ただ経を読んでいるのが、普通のサラリーマンなのだ。これを称して、何も考えていない、という。

 「剣の世界にもともといた者は、剣の世界はいいのだという自惚れがあるから、他の世界に遊学してもすぐ戻る」という指摘は、一流会社の会社員にも当てはまる。仕事さえこなしていればカネが入ってくる。自惚れていられる。
 この「剣の世界」を、他の言葉すなわち自分の人生とか、趣味とか、なんやらかんやらと置き換えて考えることができるかどうか。

 さらに言えば、スマホに夢中の若者が多いけれど、彼らもスマホを買えばいわばすぐに斬れる刀を手にしたようなものになる。
 画面を指先ひとつの操作で、なんでもほしい情報が手に入る。連絡もあっという間だ。
 スマホがない時代は、ある情報を探すそのやり方も一つの、苦労して修得する技だったが、今は技はほとんどいらない。
 相手と連絡するのも、メールがあって簡単だ。昔は恋人と連絡するのに苦労したものだった。

 親の目をどうやってかわして、彼女に電話するかなんてことで悩んだものが、今はそんなことにアタマを遣うまでもない。
 こんなことにも、現代の人間は考えない習慣が根づく。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。